1.卒業論文

自己実現とトランスパーソナルエコロジー

甲南大学 文学部 社会学科 4回生 樫原 利依


1.はじめに
 科学技術の発達によって、我々は地球のあらゆる生命・環境に対して、自分たちの都合の良いように操作し変革し得る知識と力とを手にしている。レイチェル・カーソンによれば、現代人は「《高きに心を向けることなく自己満足におちいり》、巨大な自然の力にへりくだることなく、ただ自然をもてあそんでいる」。そうして自らが引き起こした急激な変化は、自身がもはや適応しきれないほどに大規模なものとなり、様々な矛盾や歪みが環境問題として立ち現れてきている。
 急激な科学技術の発展に大きく寄与したのは、近代科学主義の根底をなしている理性崇拝、人間中心主義の思想であったが、今や人間中心論は行き詰まっているといえる。今日の環境問題を根本から解決するのに必要なのは、従来の価値観ではなく、新しい価値観の転回である。そして今我々に必要なのは、より深い問いを問う−ディープエコロジー的なものの見方を養うことである。
 より深い問いを問い直す行為に向けて、まず現在の世界認識のあり方の中心である、いわゆる西洋思想と「自我意識」について、また「自我と自己」の関係における西洋と東洋の思想をそれぞれ考察し、次に、より拡大された自己の獲得に向かう心理学的考察を検討する。それらのことから、さらに個を超えたエコロジー意識の醸成を促す新たな思想の流れを見ていきたい。

2.「自我と自己」
 (1)「自我」と「自己」の関係
 心のあり方に環境問題の根源を求めることができるとすれば、人間中心主義を生み出した「自我と自己」のあり方や環境への心的態度について考察する必要がある。 フロイトによれば、自我(ego)は、無意識の心的欲求の検閲者であり、欲動と道徳的要求との調整役とみなされる。ユングは、自我は意識の中心的機能であると述べている。これに対して、自己(self)は意識も無意識も含めた心の全体を統合する、自我の「場」であり環境であるといえる。 
 また自己の奥深くに普遍的無意識の層を考えたのはユングの特徴であるが、それこそ自己の最奥ではあらゆる生命と根源的に繋がりあっていると考えられる。
 (2)西洋の意識と東洋の心
 西洋の意識構造は、自我を中心に、それ自体で一つのまとまりをもったものである。事象を言語的・客観的に測定判断し、分類分析を行い、合理的な体系として把握しようとする。精神的発達においては自我ないし個の確立が重視される。このような自我意識を中心におく自然科学的外界観察の態度が、これに基づいた科学技術文明の発展を促した。
 これに対して、東洋の意識は、意識の「場」である自己を中心として、これに志向した構造をもつ。このような意識構造にとって、現実とは内的現実であり、外界の事象は「一切皆空」である。これはまた自我や個の確立が不十分な前近代的な状態であるといわれるが、因果律的な事象の分析から生じる二項対立や葛藤を超えたところから、「共時性synchronicity」の現象に注目をおいてあるがままに感受する態度−東洋の「心」が、東洋思想を独自の体系として発達させたのである。
 (3)環境思想における西洋と東洋
 デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉は、彼がいかに自分を世界から切り離した思考存在としたかを物語る。このとき、彼の思索においては、彼と同一の生命圏を共有する有機的世界などは塵に等しく、神に支配権を与えられた「唯一高度な理性的精神をもち得る」人間のためにのみ存在するものである。このように自我意識を偏重した人間中心論が、西洋の文化と意識に深く刻み込まれている。
 チベット仏教によれば、人間の心には粗いものから極微のものまで様々なレベルがあり、その修行は生きながらにして極微のレベルの心「仏性」を活性化させ、その存在を体得することにあるという。東洋では例えば曼陀羅、神話などの象徴形式や修行によって、自己の全体の存在を確認し、生命の根源との融合を内的に体感している。
 そしてこのような心のあり方は、アニミズムに通じる。古代ケルト民族は自然の全ての現象には超自然的な魂が宿ると信じられており、後にキリスト教を受け入れても、十字架の中心にはケルトの象徴である渦巻模様が刻み込まれ、その自然観が連綿と受け継がれていることがわかる。ネイティヴ・アメリカンの人々は、大地を母として畏敬し、いたずらに手を加えようとはしなかった。自然をむやみに搾取することは、母を、そしてその一部である自分自身を引き裂くのと同様なのである。このような自然観・宇宙観は、自然と共に生き、自然から学ぶことを忘れていなかった時代の、全ての民族に共通な感覚であった。その記憶は、ケルトの渦巻模様のように、現代人の心の奥底にも浸透しているのではないだろうか。それを呼び覚ますことが、自然との和解と、新たな共生への道を開くことに繋がるであろう。
 ところで、ユングは個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程を自己実現(self-realization)の過程と呼び、人生の究極の目的と考えた。さらにマズローは自己を、個を超えた次元に拡大して、非人間中心的な心理学の必要性を指摘した。

3.心理学的健康の研究−人間性心理学とトランスパーソナル心理学−
 (1)動機の五段階説
 マズローは、心理的に健康な人々の研究によって形成される心理学を、不健康な状態の人々の研究によって形成された消極的心理学と対比して、積極的心理学と呼んだ。彼は、人間の欲求を低次のものから高次へ、次のように五段階に分けた。
 1,生理的欲求
 2,安全の欲求
 3,所属と愛の欲求
 4,承認の欲求
 5,自己実現の欲求
 欲求は高次なほど、生存そのものに対する緊急性は低く、一般的に健康への道をたどり精神病理から遠ざかるものである。そして最高の段階である自己実現の欲求が満たされた最良の状態にあるときの人間の研究とその方法が、人間の思考から起こる価値の対立を乗り越えるという。
 (2)自己実現的人間の研究
 自己実現的人間とはどのような人々か。マズローはその全体的特徴を以下のように述べている。「自己実現者は人工の抽象概念や固定観念を超えて、自然という現実の世界の中に生きることができ、自他の人間性の弱さを自然のままに受け入れる。彼らは自身のたゆみない成長のために、己の可能性と潜在能力をたのみとする。それゆえ、欲求不満に対しても比較的安定しており、穏やかで自己充足的である。しかし内的に充足した状態に至るには、まず基本的欲求を充足させることが必要であり、内的欠乏が満たされたところに初めて、自己実現という個々の人間発展の本当の問題が浮かび上がってくるのである。また自己実現者は自律的で超然としており、通常の意味では他人を必要としないが、このような排他性は、広範にわたる民主的な社会感情や慈愛と併存し得るものである。健康な人々にあっては、価値の二分性・対極性と、本質的と考えられた多くの対立は、相互に融合し合体して統一体となった。それらは同じことを語り、同じ結論を指示するものだからである。彼らにおいてはそれらは相互に戦うことなく、有機的統一、相互浸透の方向へと向かう。」
 (3)トランスパーソナル心理学
 マズローは、行動主義心理学や自我心理学の機械論的・還元主義的な狭い人間本性の捉え方を非難し、健康で充足された人間の心理を重視した「人間性心理学」の確立に力を注いだ。ところが、人間性心理学者の実現しようとしていた自己は、依然として孤立した個としての自己像であり、原子論的な自己感覚を超える経験までは扱いきれなかった。このことには実存主義が色濃く影響していたと考えられる。 そうしたなかで、60年代にはトランスパーソナルな経験が文化の中から浮上し、心理学内部からも新しい方向性の転換が現れ始め、マズローも「自己実現者」という大きなくくりを、“単に健康な”自己実現者と自己実現を超越した人々とに分けるという結論に達する。つまり、自己実現者は現実に適応していける強い自我を確立した自己であり、これに対して自己超越者の自己感覚は、自己実現者の狭い自我的な自己感覚より、もっと拡張されたものだといえる。こうして、マズローによれば、第三の心理学としての人間性心理学は、第四の心理学へ向かう過渡期の心理学ということになる。また新しいトランスパーソナル理論家たちの関心は、より広範な理論的枠組みの構築に向けられた。それには超意識的、超自我的、超個的な実存領域を最も包括的、永続的に解明している、東洋の精神的・霊的伝統に培われ発達してきた心理学的アプローチを取り入れる必要がある。そのため、トランスパーソナルな実存状態を研究する思想家たちは、理論面でも実践面でも東洋思想に目を向けることが普通であった。
 これまでみてきた、自我の確立に重きをおいた自己実現を含め、さらにトランスパーソナルな自己の広がりへの可能性に注目した心理学的研究は、今日の環境問題におけるエコロジー意識の醸成の必要性ということに照らしてみても、そのアプローチは重要な意義をもつといえる。

4.自己実現とトランスパーソナルエコロジー
 (1)ネスにおける「ディープエコロジー」の意味
 環境問題・環境運動を見据え、人間中心論的な姿勢を哲学者たちが真剣に問い直し始めたのは、1970年代初頭になってからである。現在確実に広まりつつあるこの分野は、環境哲学(エコフィロソフィ)ないし環境倫理と呼ばれている。ところが多数の環境主義のアプローチは人間中心論を拠りどころとしている。我々は既に従来の価値の再構築を迫られているのである。こうしたエコロジーと環境主義の議論に取り上げられ、その分野に広く波及している、ネスにより創案されたディープエコロジーやこれに共鳴するトランスパーソナルな思想について取り上げる。
   )ディープエコロジーの形式的意味
 ディープエコロジー的な観点は、問いを深めていくことによって「基本命題」から導き出されると述べられており、技術的解決ばかりを提案するシャロウ(浅い)エコロジーに対して哲学的な立場であるという。
   )ディープエコロジーの哲学的意味
 ネスに影響を与えたスピノザの哲学は、我々を、その属するリアリティの総和である現世における自己感覚の拡大へと向かわせるものである。これをネスは〈自己(大文字のSelf)実現〉という言葉で表した。彼が根本規範とする〈自己実現〉は、自己感覚を現世的な意味で出来る限り拡張することを指す。しかも経験世界のあらゆる存在と同様に、それは非永続的プロセスとしてとらえられるものなのである。
   )ディープエコロジーの一般的意味
 ネスらが提唱する一般的方向性は、人間が地球生態系とあらゆる存在ないし形態に対して、人間による各種の支配に邪魔されることなく、それぞれの仕方で発展する自由を認めるものである。ディープエコロジストたちは、この一般的な姿勢を生命圏平等主義ないし生命中心主義と呼ぶ。
 (2)トランスパーソナル心理学とトランスパーソナルエコロジー
 ネスによるディープエコロジーのアプローチが、自我的で個的(personal)な自己を超えた(trans-)自己感覚の獲得を意味することから、フォックスはトランスパーソナルエコロジーをディープエコロジーにかわる厳密な名称として採用した。 フォックスにおけるトランスパーソナルエコロジーの役割とは、第一にトランスパーソナル心理学をエコロジー化することにある。マズローはトランスパーソナル心理学に非人間中心論的で自然主義的な方向づけを与えたが、一方でトランスパーソナルな存在のあり方については、理論的根拠もなく人間の自己同化の上限において人間中心論的限界を決めており、このことは我々の文化にいかに人間中心論が蔓延しているかを示している。それゆえトランスパーソナル心理学のエコロジー化が大きな課題として残されている。
 第二の役割は、環境哲学のアプローチを心理学化することである。人間中心論的な心理学やエコフィロソフィの固有価値理論的アプローチが狭い原子論的な自己の捉え方を背景としているのに対し、トランスパーソナルな自己は拡張された場の自己の捉え方に基づいている点で根本的に異なるものである。トランスパーソナル(ディープ)エコロジストたちは道徳的な強制力をもった倫理よりも、全体への自己同化へ向かう心理学的発達の方に主眼をおく。彼らは我々が世界と密接に結びついているという事実と、いかに行動すべきかという問題との論理的繋がりでなく、心理学的繋がりに関心を寄せる。自己に関する彼らの認識からすると、もし自他全ての存在が展開しつつあるリアリティの異なった側面だという事実を共感的に理解できたら、その人は自ずから、展開する世界のあらゆる側面を配慮するようになってゆく、ということだ。
 (3)トランスパーソナルエコロジーとさまざまな自己同化
 現世的な形で、できる限り拡張された自己感覚を獲得するにはどうしたら良いのか。この問いに対して、トランスパーソナルエコロジーは、自己同化のプロセスを通じて、と答える。それを支えるような自己同化のあり方をいかにして実現すれば良いのか。それには個人的、存在論的、宇宙論的基盤があると考えられる。個人的基盤に立った自己同化は人間の成長に不可欠なものである反面、エゴイズムや執着のもとになり搾取や戦争、生態系破壊などをもたらしている。トランスパーソナルエコロジストたちが求めているのは個人的基盤に立った自己同化を、存在論的及び宇宙論的基盤に立った自己同化という背景のもとに据え直すことだといえよう。それはすべての存在が独自の発展をするための自由を推進するような行動となって現れる。これは、共生を促進するような行動ないし自己実現とは我々が共存する無数の存在たちを支配することにおいて達成するものだという思想に縛られた人々のものの見方や行動を、慎みながらも断固として変えさせようとする行動といってよい。
5.むすび
 これまで自我意識や狭い自己に縛られた人間中心論的な心理学から、個を超えた意味での自己実現を志向する心理学へ、その流れをたどり、エコロジーへの心理学的アプローチを通して、ディープエコロジーないしトランスパーソナルエコロジーの内容をみてきた。ここでもう一度確認すると、ディープエコロジーは、我々の共通認識を倫理や規範として定式化することに意義を認めながらも、できる限り拡張された自己感覚の獲得というトランスパーソナルなアプローチによって、我々の大いなる共通感覚や自己同化の自然な発露を促すことを重要視している。エコロジカルな感性を深めることによって、ひとりひとりが自然界との一体性を悟り、人が自然と切り離されずに生きていた時代の共生の感覚を目覚めさせようという行為は、無から有を作りだそうというのではないのである。ネスが人間の自己同化能力について「産卵地へ向かおうとする鮭と自己同化したとき感じる喜び、そして人間の心ない破壊によってそうした大事な場所が失われてしまったとき感じる悲しみ」という例をあげている。普通、我々はこれを感情移入といっているが、この場合人間以外の存在をただ単に人格化して見たり、同一視してしまうこととは違うものであり、自然な感情の発露として鮭と喜びや悲しみを分かち合おうとする心の動きをいうと判断される。
 いずれにせよ、今日急務といえるのは、個々における人間性の心理学的な発達ないしエコロジー意識の醸成だということを強調しておきたい。ただし、この〈自己実現〉は誰か一人だけが達するというものではなく、「一切衆生」でなければ、有機的な全体性である自己の全面的発展はありえない。全体が救われない限り誰も救われないのである。
 環境問題を語る場合、人間中心論が非難の槍玉にあげられる反動か、東洋思想に傾倒する向きもあるが、この世の事象は仮そめのものだという教えが、自己同化を否定するような刹那主義に結びついたというような側面が、環境破壊を黙殺し助長させる一因となったともいえるのではないか。問題はあれかこれかではなく、それが大きな構図において世界の中の自分の位置を知り、拡大された〈自己〉がその自己治癒能力の働きを妨げないでいるように、自己愛を発達させることができれば、手段は科学(技術)、哲学、宗教、政治、経済など何であれ、トランスパーソナルで根源的な次元において共感できていれば、個々の分野においてそれぞれが存分に個性を発揮した時、全体の有機的システムは活き活きと循環し活動するのである。
 無論、大変難しいことであるけれども、我々が、世界を展開しつつあるリアリティの動的システムのまとまりとして認識し、共に在る存在たちの多様性を尊重しあうような拡大された自己感覚を体得することができれば(あくまで過程において)、自ずと道は開かれてゆくだろう。



<The process of one person's self-realization in the story of Jane Eyre>

Konan University, English Literature and Language,senior, Yasuko Kamata


(Introduction)
Jane Eyre is a story about a girl who was brought up as an orphan with loveless surroundings. But, as Jane Eyre, her surname “Eyre" is also a metaphorical one which suggests “heir"and “air",she ought to be morally entitled to find some “comfort" or “hope" in future. So, she also can be a woman who blew a refreshing air into others. Then, she never stop making efforts to accomplish her journey to get a peaceful life in spite of her unfortunate birth. And, because Jane always possessed an belief that “God is friend to the poor orphan child," she grew up to be a affectionate lady with self-respect.
However, until achieving “Heaven" which namely seems to be peaceful home for her, she had to struggle to get knowing herself who was full of passions. Through her life she interacted with distinct types of people to form her humanity. Then, she knew who she must be through their images. There was another factor which influenced her growth strongly, that was faith in God and Nature. Due to these ideas, she realized what sorts of trust she can possess herself. Thus, the main theme of this story is the process of one person to understand herself and accomplish her self-realization by her own efforts.
In this essay Jane Eyre's life will be analyzed to know how and what she learned from her experiences to be herself in each stage. Moreover, the social conditions in the Victorian times become clearer, for the author Charlotte Bront often shows her rage about unfair treatment, especially, of women, through Jane's character. In reality, the author had not appeared her
real name,and published this novel by male name, Currer Bell, for it was unusual at that time to write books for females. From these fact, it is also imagined how strict society the Victorian times was for women.
In addition, the author Charlotte Bront will be focused on with respect to the similarity between the heroine Jane and the author herself at the end of this essay, for Jane Eyre is called in a sense the author's autobiography.
The author, Charlotte Bront was born on 21 April 1816 at Thornton in the West Riding of Yorkshire. Her mother, Maria bore six children (including Emily Bront who was the author of Wuthering Heights), and died of cancer when Charlotte was only aged four. Then, the Bront family moved to a tiny town called Haworth. It was surrounded by moors and hills, and the author kept on suffering from different kinds of illnesses, because of the inhospitable environment. Besides, there was little social contact in the town, so the Bront brother and sisters always played among themselves. And, even after growing up,they spent their life with the family without marriage. The author was also one of them who had such a queer life, although she got married nine months before her death. She died on 31 March 1855 when she was aged 39 without having any children.
From her extraordinary life, at least two factors should be noticed to consider why such a original novel was written in the conventional Victorian era. The first factor is her motherless environment. And, the second one is her limited circumstances. So, let's try to find how strongly she was effected by these factors to write this novel, and the necessity why she had to write unconventional novel, Jane Eyre.
(I)The outward trial
《Jane's unfortunate childhood as a poor orphan
- The first stage at Gateshead》
《Her growth as a school girl
- The second stage at Lowood》
《 Her growth as a governess
- The third stage at Thornfield》
 
(II)The inward trial    
《New life with new name
−The fourth stage at Marsh End(in Moor House)》

(III)After overcoming both trials
《Life as happy woman - the fifth stage at Ferndean》

(Conclusion)
As a solitary orphan like the one in the ballad, Jane Eyre knew the necessity of bearing the fiery trials in her future, and until overcoming all, she felt that “long is the way, and the mountains are wild"(p.24), however she had to start her wondering journey from Gateshead. And, at Lowood she grieved at her own circumstances by saying herself that,“why did they send me so far and so lonely"(p.24),but at the same time she recognized the cordiality, and expressed her hope as- “kind angels only watch o'er the steps a poor orphan child"(p.24). Then, while being at Thornfield, she learned to be attached to Nature and God as the substitute for parents, for “God, in His mercy, protection is showing, comfort and hope to the poor orphan child"(p.24). So, even having a great trouble at Marsh End, and nearly yielding to the temptation by the man, and “stray〔ing〕 in the marshes, by false lights beguiled"(p.24), she realized that she was still protected by “His bosom"(p.24).Finally,at Ferndean she accomplished self-realization, so recognized that “Heaven is a home"(p.24), which was suffused with tranquility.
And, through the whole journey Jane gained respect not only for God, but for herself, for she could trust her human nature which completed her self-realization. As a matter of fact, she recognized that human nature was trustful,for she learned that it was instructed by nature, and this nature was also moralized by Nature or God.
So, it was already needless to say how important these factors were for developing her faculties. In reality, she could console herself and persevere in her efforts for prevailing over each difficulty due to these paternal and maternal factors. Even th