V.大学生活の一風景

1、専門教育「哲学思想基礎論」:講義の一コマ

VTR『あなたの声が聞きたい “植物人間”生還へのチャレンジ』感想


甲南大学 文学部 三回生 久山 美保


 このVTRは、現代の医療のあり方について深く考えさせられるものでした。脳死状態に陥った患者は、寝たきりで何も反応せず、呼吸をしているだけのように見えます。普通多くの病院では延命装置をつけるのみで放置され、医師も看護婦もこのような患者にはほとんど手を触れないのが現状であるようです。しかし、この麻布病院では看護婦が患者の手をさすったり声をかけながら温浴したりすることで患者の体性感覚に刺激を与え、意識を呼び起こそうとしていました。このことは当たり前のようで、私にとっては大変新鮮なことでした。
 今まで脳死の状態では、もう脳の機能は停止し二度と動くことはないので手のほどこしようがないと決めつけてしまっていました。けれどもそれではその人の意識はどこへ行ってしまったのでしょうか。身体機能は継続され、意識だけが消えてしまうという事実は、医学的な見地から「死」と認識することはできるかもしれません。しかし残される家族や友人にとっては納得できないでしょう。このVTRでも地元を離れ、この病院のある北海道へ移りすむ家族などが取り上げられており、脳死と見なされた患者を持つ家族の回復への必死の思いが伝わってくるようでした。こうした家族や友人の願いを患者に伝え、その実現の手助けをする麻布病院の看護婦の真摯な態度は本当にすばらしく感じました。患者一人ひとりにあったプログラムを作成し、話しかけ、体性感覚を与えるように体をさすり温浴やマット運動などしながら、ジャンケンや食事の経口摂取、会話などといった目標を掲げる。そのハードな目標を一つ一つ達成させながら回復を促して行く。その看護のあり方を生かす病院と、その看護婦の涙と笑いが表裏一体した姿に私は心をうたれました。そして、看護婦や家族の一生懸命な問いかけに答えようとする患者の姿も強く印象に残りました。
 人間は医学(科学)だけではどこか割り切れない部分があると思います。人間は生物、生命あるものです。生命には今日の医学や科学では解明しきれないもっと深い部分があるからではないでしょうか。それは機械的に白黒をつける科学ではなくて、人間の心の問いかけに柔軟に反応する部分です。今日の臓器移植に関する様々な問題を違う観点から考えさせられるドキュメントでした。

2、環境教育体験学習・田植えレポート


からだで知ること


甲南大学 文学部 三回生 浜田 圭子


 6月12日、私はゼミに入る前から噂に聞いていた「田植え」に行った。行く前は「なぜ今更田植えをするのか」、「なぜ鳥をその場で絞めて食べるのか」疑問であった。しかし実際合宿に参加してみると、自分が頭の中だけで考え、理解していたような気になっていたことがわかった。
 当日、日焼け止めクリームを多めに塗った。私はこの夏こそは色白でいたいのだ、と考えていた。6月は紫外線の量が一年のうちで一番多いから、もしこれで肌が焼けることがなければ今年探検部のすべての活動に参加したとしても肌が焼けることはないとほくそ笑んでいた。そんな私のくだらない考えはたんぼを見て一蹴された。苗が目の前でひえや水草とともに風にそよいでいたのだった。確か小学校のとき社会科の授業で習った手順では、苗はビニールハウスからやって来るはずだった。どうも妥協は許さないらしい。私はこの時「色白の私計画」は諦めた。そのことによってパワーアップした私に怖いものはなにもなかった。地道に苗とりをしながら、この調子で鶏も任せておけと考えていた。しかし、私も女である。このような考えを他の人に知られてはいけないと思い、きゃあきゃあ騒いでみようかともくろんでいた。
 しかし、宿舎に帰って目の前にいたのは鴨であった。つぶらな瞳と臭いと、毛のむしりにくさとに少しひるんだ。でも、私がひるんでいてはいけないと思い、でも、なるべくなら鴨にあたらないようにと少し祈っていた。それでもやっぱり、鴨は私のところにやって来た。意気込んで作業にとりかかったが絞めるのは思っていたより簡単で、淡々としていて、そのことで少し気抜けた。鴨は、私たちに食べられることをたやすく受け入れたように思えたのだった。「食べること−食べられること」というのはこういうものなのかと思った。そして、ゼミのみんなの表情も忘れられない。表情は強ばっていたけれども、頭の中ではぐるぐると色んなことを考えていたのだろうな。
 米も肉も、食べるという行為は生きることに直接関わってくる、大切で基本的な行為であるのに、毎日繰り返される行為であるが故にすっかり鈍感になってしまっていたようだ。その行為を他人に委ね、ただ受け取る側でそんなことすら考えずに過ごしていた。今回の合宿は、自分にとって色んなことを見直すよい機会であったようだ。やっぱり、文献や映像からだけでは感じ取れないことがたくさんあり、頭の中だけで考えるという偏った学び方は私を愚鈍にして行くのだと思い知った。これからも自分の体で学んで行きたいと思う。

3、読書会・鈴木大拙『禅と日本文化』

読書会『禅と日本文化』を通して学んだこと


甲南大学 文学部 研究生 鎌田 靖子


1、はじめに
 これまでにも谷口研究室では、読書会が授業以外に開かれ、例えば『フロイト著作集(人文書院)』を10年間、続けて読破した歴史がある。一冊の古典を通して著者の考え方、また長年哲学だけに飽き足らず心理学や宗教書なども研究されている谷口先生から人生の先輩として生き方・ものの見方を学び、多くの優秀な先輩が巣立った。
 今年度の読書会は鈴木大拙著『禅と日本文化』を文献とし、週一度、火曜日に読書会が催された。
 読書会は次のように進行する。毎回発表者を決め、発表者は事前に発表部分の内容を下調べし、原稿を用意する。当日、発表者は自分の作った原稿に沿って発表を進める。その後、先生がその日の発表から幾つかを取り上げ、時には先生の体験を例にあげながら発表内容を我々が理解しやすいよう説き明かしてくださる。その解説により著者がどのような心情でこの一文を書いたのか、あるいは我々自身の内で、あまりにも主観的に理解していた文章を、先生の示唆により、自分の行動と照らし合わせて初めて、「ああ、こういうことなんだ」と腑に落ちることもしばしばあった。
 ところで、高度経済成長期に生まれ育った我々は、戦争などによる死の恐怖や貧困の悲哀とは無縁の生活を過ごしてきた。また、学校や家庭といった狭い、しかし安全な環境において他人と触れ合い、自分というものを限定された範囲で理解してきたように思う。しかしながら、この鈴木大拙の『禅と日本文化』は、古来から日本文化の神髄を貫いてきた自己訓練的な精神を我々に伝え、より厳しく、しかしながらゆっくりと時間をかけて己と向き合うことを我々に要求する。
 そのため火曜日の五限目の授業が終了し、一旦読書会が始まると、研究室はそれまでの穏やかな雰囲気から一変して、厳粛な空気が漂う。そこを谷口先生は「道場」と形容するが、まさに、精神を修養するための道場になる。そして、そこで発せられる言葉は、その場を囲むすべての人に向けられている。

2、「鈴木大拙」について
 大拙は死後数十年経た後も、後世に多大な影響を与えうる思想を残した。彼の思想が、いったいどのような生涯を通して生みだされたのか次にみてみたい。しかしながら、彼自身はほとんど日記や体験記などを残していないため、どのようにして悟りの境地を自覚し、またそれを深めていったのかは把握しようもない。そこで、彼の弟子や教え子の記述から、彼の人柄がいかに並外れて大きかったかを曖昧にでもうかがうことができればと思う。
 彼の生涯は、大きく分けると次の四期に分けられる。第一期は、生誕から上京し、就学後に鎌倉参禅を開始するまでの二十数年間。第二期は、渡米から欧州をへて帰国するまでの十二年間。第三期は、学習院教授時代を経て大谷大学教授までの三十数年間。そして、第四期は、退官後、九十五歳で死去するまでの二十一年間。
 第一期、大拙は、金沢四高時代に哲学者で著名な西田幾太郎などと共に過ごしている。しかし、経済的な理由で彼は学校を中退する。そして、その頃から自らの人生について考えるようになり、その手段として鎌倉の円覚寺において参禅を始める。生涯の恩師である洪川老師と洪嶽老師に出会うのはこの時期である。
 第二期、渡米後、大拙は当時『老子』の英訳を試みていたポール・ケーラス博士の下でその作業を手伝う。そこで満十年余りその仕事に従事した。従事したといっても、その間なんの悩みもなかったわけではない。次の恩師、洪嶽老師の遷化のときに書かれた追憶文の一節からその様子が読み取れる。「海外に流浪すること十数年、随分さびしい生活をやったが、どうやらその間の悩みを切り抜けたのも老漢のこの精神的鍛練から来たと見てよい。」(『世界の禅者−鈴木大拙の生涯−』より)
 第三期、帰国後、大拙は学習院の英語の講師として招かれる。次の文章から大拙がどのような教師であったか推測できよう。

 −−鈴木先生が、ただの英語の先生ではなくて、何か段違いの存在であるということだけは、中に入りたての小さい頃から、なんとなく感じていた。−−もっとも、それにはこんな事件も関係があるのである。

 −−教室でやるいたずらは無限にあった。そうした中に、先生の机を教壇の端すれすれにのせておく、というのがあった。先生が入ってきて本を机の上においたとたんに、その机が物音をたてて転落するという仕掛けで、うまく行けば、これは視覚的にも聴覚的にも、なかなかはでなものだ。

 −−みんなが固唾をのんでいるところに、先生が現れた。先生はいつものように、何か半分考えごとをしているようなふうで、風のように教室に入ってこられて、教壇の上にのぼる。そしてポンと教科書を机の上におかれたのである。仕掛けができているから、机はそのトタンに大きな音をたてて、教壇の下に落っこちてしまう。−−しかしあとが続かないのである。当の先生が林のごとく静かで、眉一つ動くわけでもなし、もちろん顔色一つ変わるわけでもない。

 −−鈴木先生は、ゆっくり歩かれて、いつも遠くの地平線をながめているような、静かな眼つきをしておられました。他の先生がたが威張った軍人風の挙手の礼をされるのに、先生は猫が頭をなでるような独特の敬礼をなさいました。

 −−中学の上級生のころ、僕が先生に“宗教は必要なものですか”と伺ったら、先生は“真面目に生きる人にはおのずから分かる”といわれたことを覚えています。(同上)

 第四期、大拙は大谷大学を退官後、彼がそれまで長年にわたって熟考してきた思想を結実する。それは「即非の論理」で代表されるように今日「鈴木禅学」と呼ばれるものである。

3、「禅と日本文化」について
 我々が勉強会で用いた文献『禅と日本文化』がどのようなものであるか次にみよう。
 これは、英語で出版された"Zen Buddhism and its Influence on Japanese Culture"(Kyoto 1938,The Eastern Buddhist Society,Otani Buddhist College )の前編と、別の一章「禅と俳句」を付け加えて和訳したもので、1940年に初版が発行されている。
 全部で7章からなるこの文献は、第1章が「禅の予備知識」で始まり、「禅と美術」、「禅と武士」、「禅と剣道」、「禅と儒教」、「禅と茶道」、「禅と俳句」と続く。つまり、禅宗を基軸として武道や芸道、宗教といった日本の文化を成すさまざまな道義が考察され、またこのような道を通じていかに自らを深め、鍛練しうるかということが語られている。
 その中から私自身が担当した第4章「禅と剣道」を取り上げる。
 剣道を語るにあたり、刀の威力について省くことは不可能である。というのも本来の剣道は今日のように竹刀ではなく本物の刃金を用いた。つまり、剣道というのはその刃金によって殺されるか、生かされるかといった生死をかけた戦いであった。
 大拙は、「刀は武士の魂である」という。いいかえると、刀は武士にとって自らの魂や生命に等しい。ところで、これには二重の務めがある。一方は、持ち主の意志に反するものを破壊することであり、時として「悪魔的な力の象徴」ともなりうる危険なものである。他方は、自己保存の本能から起こる衝動を犠牲にすることであり、「平和・正義・進歩・人道」を守り切るという宗教的な意義をもつ。つまり、後者により前者の力が「抑制」または「聖化」される。文献の中で、大拙はこの両方の務めを表現するのに次の名刀「正宗」と「村正」に関する伝説をあげている。

 ある人が村正の切れ味を試そうと思って、水流にそれをおき、上流から流れてくる枯葉にむかって、どうするか見守った。刀に出会った枯葉は、どれも二つに切られた。彼は、今度は、正宗を立てたが、上から流れてくる木の葉はその刃に触れる事を避けて行った。
正宗は人を斬るということに関心を持たなかった。それは切る道具以上のものだった。しかし村正は切るということ以外にでられなかった。村正には、心を打つような神聖なものはなにもなかった。村正はおそろしいが、正宗は人情味がある。村正は専制的であるが、正宗は超人間的だ。(『禅と日本文化』より)

 こうした神聖な意味をも秘めた日本刀を帯するものは「精神的な人間たるべくして、獣性の代表者たるべきではない」と大拙はいう。また、真の武士は「鋼鉄の冷たさを表面に表しながら、そのなかに生ける魂を蔵するものとしなければならぬ」とも述べている。
 ところで、刀を操る際、本来の敵は他人ではない。それは、生と死に執着する自己である。その自己防衛の思いを断つために、剣道の実用的な目的つまり「技術」を錬磨することに励むのであるが、これは同時に、道徳的と精神的な目的「究極理性」をも助成する。いいかえると、日本文化のあらゆる武道、芸道においては、技術を真に習得するためには、精神、大拙のいう「究極理性」をも熟知することが不可欠である。そして、困難ではあるが、その精神の習得が「一切の芸術は禅」ということになる。では、この精神とはいったいどんなものであろうか。大拙は次のように述べる。「この精神は、彼の心が生命それ自体の原則と完全に共鳴したときにのみ、すなわち『無心』として知られる『神秘的』な心理状態に達するときのみ、把握される。仏教の語義からいうと、それは死生の二元論を超越することである」。
 この「無心」という心理状態は、また「絶対受動のもので、心が惜しみなく他の『力』に身をゆだねる」状態、「無意識に意識すること、そして意識していて無意識である」とも述べられている。
 この状態が、剣道などの修行によっていかに鍛練されていくかは『不動智神妙録』という柳生但馬守に送った沢庵和尚の書簡から推測されうる。それによると、修行を初めたばかりの初心の頃は、太刀の構え方も分からないため、心を乱す対象はない。しかし、少し上達すると、敵や敵の太刀といった対象に心が捕らわれ、つまり意識するため、自らが抜け殻になり、相手に打たれてしまう。これは仏教では精神発展の段階上「無明住地煩悩」と呼ばれる。ところが、さらに上達すると、心が物事に捕らわれず、動転しない状態に達する。これは「諸仏不動智」と呼ばれる。そして、より熱心に稽古を積むに従い、自らの身の構えも太刀の取様も気にならなくなり、つまり意識することなしに剣を握ることができる。そして、その時、再び初心の時と同様なにも知らない無分別な状態に返るのである。
 さらに「荘子」の中にも次のような話がある。一人の男が無心という心の状態を創り出していく過程が、うまく表現されているので最後に述べる。

 梓人の慶が木の細工をして楽器をつるす木組の架桁を作った。−−魯の殿さまはそれを見ると、慶にむかってたずねた、「そなた、どんな技術でこんなすばらしいものが作れたんだ。」答えていうには、「私はしがない細工師です。格別な技術などどうしてありましょう。けれどもこんなことはあります。私が架桁を作ろうとするときは、いつでも内なる精気を決して傷うことのないようにします。必ず精進潔斎して心を落ちつけるのです。三日も潔斎すると、立派なものを作ってほうびを貰おうとか官爵や利禄を得ようなどとは思わなくなり、五日のあいだ潔斎すると、世間の評判や出来の善し悪しも気にかからなくなり、七日のあいだ潔斎すると、どっしり落ちついて自分の手足や肉体のことを忘れてしまいます。−−そこで初めて山林のなかに入り、自然本来のありのままの形で架桁を作るのにぴったという材木をさがし、そのうえで完成された架桁を心に思い描いて、それから初めて手をくだすのです。−−つまり心の自然なありようで材木の自然なありように合わせるのでして、細工ものが神業にもまぎらわしいとされる理由は、そのためでしょう。」
(『荘子−外篇・雑篇』より)

4、おわりに
 たびたび人は、人生において自分自身に向き合うことを要求されるが、これは苦痛で辛いことでもある。しかし、鈴木大拙という、約一世紀前に生まれ自らの生涯をかけて自己と、また自己をも越えより広い視野から人間の探求を試みた偉人の教えを文献から学ぶことは貴重なことではないだろうか。
 我々自身も何事かを通じて自らを鍛え、そして「無心」の境地を養うことができればと思う。

4、国際シンポジウム'98を終えて

環境教育とセンス・オブ・ワンダー


甲南大学 文学部 研究生 樫原 利依


1、はじめに
 われわれを取り巻く環境の問題は、日毎に複雑さを増し、深刻さを極めているように思われる。水俣病に代表される公害病、奇形を生み出す農薬や化学肥料、家庭ゴミや産業廃棄物・核廃棄物処理問題、水・空気・土壌すべてにおける汚染と生態系への重大な影響…「こんなになるまで、どうして放っておいたのだ」その報いは、われわれ自身のみならず、生態系を含めたわれわれの子孫にまで及ぶ。失われつつある、自然のもつ免疫力を回復させるにはどうすればよいか。われわれは、もう一度われわれ自身の心を見つめ直さねばならないだろう。
 1998年3月20〜22日、国際シンポジウム「環境倫理と環境教育−科学技術と人間性をめぐってー」が行われ、人間の行為−技術と、それを利用する人間性の問題などについて討論された。各国の先生方、学生達の環境に対する価値観に触れ、新しい情報を得て、環境倫理の方向づけということに関しても大いに参考になった。

2、学生会議−若者の認識についてー
 環境問題は言うまでもなく地球全体に及ぶ問題であり、例外はないと言ってよいであろう。中でも、日本と中国は直接お互いの行為の影響を受け合う。中国は日本や他の先進国を参考に近代化政策を進め、大量生産、大量消費型社会に移行しつつある。それと同時に、先進国のもたらした環境汚染を反面教師に、環境教育の整備・充実に努めている北京大学のような機関もある。しかし、一般の人々の意識は日本と同様にまだ浅いようである。
 今回の学生会議は日本側が甲南大学、中国側が北京大学の学生であったが、他大学の学生からの質疑などもあり、短いながらも興味深く、次に繋げられる内容になったと思う。
 甲南大学生の発表は、若者を対象にしたアンケートが特徴的であった。例えば、有吉佐和子が70年代に発表した『複合汚染』では、われわれの口に入る食品添加物の数は一日80種類と書かれている。しかし98年における若者の多くは、80に満たない数を回答していた。『複合汚染』は20年近く前の著書である。無論食生活には個人差があるだろうが、現在口に入る食品添加物の数が100を越えていないはずだと言い切れるだろうか。われわれは、衣食住全てにおいて、それが何でできており、どういう工程をたどって加工され、どういう影響をわれわれに与えるのかということにあまりにも無頓着である。
 また高度経済成長が生み出したのはモノだけではない。われわれの心にも重大な影響を及ぼした。現代社会において成熟しきれない若者は、「深く問う」ということを避けているようである。環境教育のねらいの一つは、自分について、人間について、生きとし生けるもの・在るものについて、深く問い続けられる人間性を培うことでもある。
 北京大学生の発表でよく耳にしたのは「持続可能な発展」という言葉であった。資源や生態系、リサイクルなどに着目しているが、持続可能な社会の原理が守られるようになれば、生活の便利さの追求にはある程度の歯止めがかかることになろう。技術が進歩して、自給自足のできる人工環境が作り上げられるのかもしれないが。しかし何にしろ、そういったことは科学者の倫理観にも関わることであるように思える。
 また、中国における環境問題と人口抑制の問題は切り離せない関係にあるが、こういったことは発展途上にある国の多くが抱えることでもあり、97年12月の地球温暖化防止会議の時にもあったように先進国と途上国の「発展」をめぐる認識の差となりうる。過去における搾取の歴史を無視することもできない。それらを乗り越えて構築されるべき環境倫理とは。われわれはさらに深く問い続ける必要がある。

3、環境教育とセンス・オブ・ワンダー
 今回のシンポジウムのテーマである「科学技術と人間性」の問題については、参加された先生方やわれわれに共通の答えとして、技術そのものよりも、それを開発する人間、利用する人間の人間性−心(human nature)が問題であるという認識が明らかにされたと思う。特に今回は核技術についての田先生の講演が少し新鮮であった。というのは、環境汚染について学んでいると、つい科学技術を悪いものと見なしてしまう傾向が出てくるので、そう敵対視するのでなく、われわれだけでなく環境そのものにもプラスになるような良い利用の仕方をすることが必要であること、それはわれわれの価値観によって左右されることを改めて考えさせられた。ただ、原子力発電の発展による大気汚染減少や放射線による医療技術の進歩などの利点を考えても、やはり、どうしてもあのチェルノブイリや広島、長崎などの悲劇的な光景が、核技術を全面的に肯定することを拒む。
 しかしどちらにしろ、何より問題なのは環境倫理の方向と環境教育のあり方になってくるだろう。人間が技術を開発し利用するという本性を持っている限り、それが良い影響を及ぼすかそうでないかは人間の心のあり方が決定していくことである。しかし若者や子供達の心は自然−他者に向かって開かれていない、不健康な状態に陥りがちである。彼らに対して、また大人に対しても適切な環境教育とはどういうものだろうか。 リチャード・スミス先生によれば、人間性に対して適切で効果的な環境教育とは、認識、熟練、動機、及び成功の経験という4つの資質を用い、それらの発達を促すものであるという。そして感覚、知性、情緒、社会的経験を積むことで身体、心、精神が「健全な(sound)」状態で働き、それを維持するようになると。それは、環境教育の実践者だけでなく、学校や家庭での教育を行う立場にある人間のために、まず必要なものでもあると思われる。
 多くの先生方が述べられていたが、環境教育は生涯一貫しての教育である。古代のわれわれの祖先や先住民は、子供のころから環境との一体感、木々や大地と感応する能力を養い、生涯大地の懐に抱かれて生き、死んで大地に還るという循環を繰り返しており、環境教育は長老や年長者たちによって行われていた。それは文化となって生活の隅々にまで浸透し、彼らの価値観の根幹をなしている。このような太い根っこを、われわれの現代文明のなかに深く広く張り巡らすために、彼らから学ぶことは非常に多い。
 また、われわれが忘れかけている感性を呼び覚ますということにおいて貴重な示唆を与えてくれるのが、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』であろう。クモが巣を張るのを見、海鳴りや木の葉のざわめきを聞き、土の匂いを嗅ぎ、そのひとつひとつの現象に驚き、全身でそれらを感受しようとする、子供のときの感覚。それらを持ち続けられれば、自然との一体感、共に生きているという実感は自然に生まれるものである。その実感は、ネスやディープエコロジストたちの言う「自己実現(Self−realization)」に通じている。センス・オブ・ワンダーを育ててきた人は、自然環境や生態系の破壊を、自分の痛みとして実感するだろう。自分や自分を取り巻く人間だけでなく、大きな、宇宙的規模、もしくは宗教的見地から物事を判断できるようになるだろう。
 この能力を育てるには大人であっても遅くはない。筆者の世代も、環境教育といえるようなものは学校教育にはほとんど見られなかった。今の子供達に教えられることもあるだろう。けれども、教師や親に教えられることだけが環境教育ではない。フィールドに出れば、われわれを取り囲む大地が、水が、様々な生き物たちが、非常に多くの主要なことを教えてくれるであろう。

4、まとめ
 「フィーリング・アーツー音と色彩の環境芸術」が行われたとき、代表の北村さんは、「これは目と耳と、あなたの心とで作り上げられるものです」と述べられた。人によって様々に見えるということだが、筆者は、この音楽もこの映像も、かつて昔、母の胎内にいたころか、もっと前の、なにか別の生き物だったころか、もしくは何ものでもなかった頃に、聞いたことのある、見たことのあるものだという気がした。こういう感じは、ある民族音楽を聞いたときなどによく現れる。それは、決して気持ちのいいだけのものではなく、時に言いようのない畏れが湧き上がってくるものでもある。
 フィーリング・アーツが終わってからの会場の雰囲気も、だいぶリラックスしたものになっていた。芸術の果たす役割も、センス・オブ・ワンダーに関わる重要なものだと感じる。
 今回のシンポジウムで得たことはたくさんあったが、了解できたのは、科学技術を開発する側のモラル、使う側のモラルによってわれわれ自身や環境に対する影響が違ってくること。自然、社会、精神の健全なモラルを養うのに必要なのは、適切な環境教育であり、それは生涯の教育である。そこにはセンス・オブ・ワンダーの精神が非常に大切な役目をもつであろうということである。
 非常に多くの情報、示唆を得た。筆者は、これらを消化しつつ、自分なりに栄養として、さらに自分なりのセンス・オブ・ワンダーを育てていくことが、環境倫理を考察する上でのひとつの鍵となることを願う。
 より大きな自己実現に向けて、まだまだ深く問い続ける必要があるのだから。
(研究生論文より転載)


5、国際シンポジウム'98・学生会議に参加して

成熟できない若者の心の環境について


甲南大学 文学部 三回生 平岡 永子


 3月20日〜22日、甲南大学にて開催された国際シンポジウム'98・学生会議に向けて、私たちのゼミでは「自然環境」、「社会環境」、「心の環境」、「環境倫理と環境教育」という4つのグループに分かれて発表するため、1月から各グループでの調査活動に取り組んできました。
 私は、その学生会議で嶋本春恵さんと森岡由美子さんと共に「心の環境」グループとして成熟できない若者の心の環境についてアンケ−ト調査を用いて発表しました。私たちが若者の心の環境について調べる動機となったのは、4回生になる前の春ということもあり、自分自身についていろいろ考えている時期でした。これからの自分たちの進路について考えると憂欝な気分はどうしても拭い去れませんでした。また、ちょうど中学生による衝動的な犯罪が起こった時期でもあり、なにかと現代の若者について取り沙汰されていました。そこで、若者の一員として若者の心の環境についてアンケ−ト調査を通して調べてみようと考えました。
 アンケ−ト用紙を作成する前に、谷口先生の勧めで町沢静夫『成熟できない若者たち』(講談社)を読みました。そこには、豊富なモノに囲まれた消費社会に育った若者は、待ち、工夫し、努力し、その結果何か手に入れるということが苦手になり心が衝動的・短絡的になっているのではないかと分析されていました。近年、家族構成員の減少、少子化、共働き、核家族化などによって家族のまとまりが欠如し、親密さも希薄化し、また、友人関係の乏い若者は、個人主義的で、感覚的享楽的であり、社会全体を考えるという生き方はきわめて少なくなってきているとも分析されていました。これらの分析を参考に、私たちは「自然・社会環境の部門」と「心の環境の部門」に分けて合計68問の質問を作りました。このアンケ−ト用紙を作成するために私たちは3週間を要しました。なぜなら、「三人よれば文殊の千恵」とはいいますが、それぞれいろいろな意見を出し合った結果、まとまらなくなってきたのです。それでも、何度も話し合いを重ねるうち、それなりに納得のいくアンケ−ト用紙を作成することができました。アンケートは次の二部門に分かれています。一方の「自然・社会環境の部門」では、どれだけ環境問題に関心を持ち実際に環境運動をしているか、次世代について考えているかに焦点を合わせて質問を作りました。また、他方の「心の環境部門」では、人間関係についてや、何に価値を置くのか、自分が自立しているかといった質問を作りました。
 私たちは、甲南大学の学生を含め主に大学生を中心に男性70人、女性71人合計141名にこのアンケ−ト調査に協力してもらいました。141人にそれぞれ68問の質問をしたために、集計は本当に大変なものでした。集計をしてどの質問項目を学生会議で発表するかを決めて、それをパソコンを使ってグラフにしレジュメを作るという作業に時間がかかりました。私たちは学生会議の前日、徹夜をして作業しました。ここで、私が印象深かったいくつかの結果について抜粋して紹介したいと思います。
 「幸せとお金は関係があると思いますか」という問いに対して88%の人が多少なりとも関係があると考えていました。ここには、物質的なものによって幸せを得る若者の姿がうかがえます。また「あなたは、自立していると思いますか」という問いに対しては69%の人が「いいえ」と答えています。そして「COP3(京都会議)について興味がありましたか」という質問に対して「知らなかった」と答えた人が31%、また、「動物や植物などのある生きものが絶滅していることに危機感を感じますか」という問いに対し「いいえ」と答えた人が6%、「なんとも思わない」と答えた人が5%いました。そして「今自分たちがよければ、未来の世代はどうなってもかまわないと思いますか」という問いに対して「はい」と答えた人が7%いました。例え少人数ではあったとはいえ、自分以外の事柄(他人・社会・自然)については、「関係ない」ですますことのできる、自己完結的な自他分離した若者の存在が浮き彫りになりました。実のところ私は、町沢静夫さんの、 現代の若者は個人主義的で、感覚的、享楽的であり、社会全体のことについて考えるという生き方はきわめて少なくなってきているという分析に、同じ若者として腹立たしいと思っていたのですが、今回のアンケ−ト結果で町沢静夫さんの分析をある程度、肯定せざる終えなくなりました。
 内なる「心の環境」の汚染が外なる「自然・社会環境」を汚染すると言われています。今回の調査結果から若者の心の環境は、除々に変容しているようです。そして、その若者の自己完結的傾向が自然環境・社会環境に悪い影響を及ぼしていると言えるでしょう。私自身、21世紀の地球環境がどうなるのか不安です。ダイオキシンや環境ホルモンの存在を考えると人類はおろか地球に未来はないのではないかという考えさえ浮かんできます。それでは、どうすれば環境汚染をくいとめることができるのかと問われると、私は答えることができません。けれども「外なる環境汚染」を食い止めるためには、「内なる環境」が健全なものでなければならないと思います。今回のシンポジウムのテ−マである「環境倫理と環境教育」を基盤とし、環境教育が内なる心の環境に働きかけて“いのちを大切にし、心豊かな人間像”の育成が実現されるならばそれは、人類だけでなく、地球上の生物全体を救うことになるのではないかと思います。

6、学生論文一覧




(1)卒業論文
生き方の問題としての情報社会                    川端 芳紀
ヨーロッパの「人間中心主義」の思想について
−キリスト教のヨーロッパへの文化的影響と現代的存在意義−      綱嶋 俊介
リサイクルとゴミ問題 −生態系の思想を軸として−          東  法子
日本と欧米におけるインフォームド・コンセントの比較         平沢真実子
二次的著作物としてのデジタル音楽の限界と可能性           前田 早織

(2)研究報告
水俣は今'98 −The Circumstance of Minamata City'9 8−          天野 雅夫
環境倫理と環境教育                         鎌田 靖子
環境教育とセンス・オブ・ワンダー −国際シンポジウム'9 8より−   樫原 利依
環境と人間性について                        瀬戸口優子

(3)ゼミナール論文
児童文学と子どもの世界                       朝倉 円香
リサイクルとその現状                        久山 美保
現代社会における若者の心の特徴                   嶋本 春恵
脳死と私たちの考える死                       竹林 由佳
生物的レベルにおける内と外の問題 −内分泌系撹乱物質問題から考える−浜田 圭子
心の在りかを求めて                         平岡 永子
成熟社会における若者たち                      森岡由美子
「生」の重みと共生の「場」について −西田幾多郎『善の研究』より− 渡辺 理和

VI.甲南大学公開講座




[第1回]5月10日(土)13:30〜15:10
自然・社会・心の形成とその環境問題
講師 甲南大学文学部教授 谷口文章

 “21世紀の人間と地球環境を考える”場合、「環境」の概念をまず明確にしなければならない。環境は、「自然環境」だけでなく、人間の活動や生活の場である「社会環境」、教育や心の「精神環境」に分けられよう。そして、それぞれの環境において、オゾンホール、森林伐採、大気・土壌汚染などの自然環境破壊、震動・騒音・日照権などの迷惑公害や、食物汚染、医療環境の悪化などに象徴される社会環境破壊、受験戦争・登校拒否・いじめなどの精神環境破壊などが生じている。
 また別の見方からすると、身体を仲介にして「外なる環境」と「内なる環境」にも分けられる。外なる環境は、自然、社会が考えられ、内なる環境は心、精神が考えられる。そのような外と内の環境を結びつけ、さらに自然・社会・精神の環境を結びつけているのが身体活動である。したがって、「身体の観点」からすべての環境は成立していると考えてよいであろう。
 ところで環境の重層的な形式を考えてみると、自然が基盤となって、宇宙の創成から地球の生成、地球における生命の発生・動植物の繁殖、そして自然の枠のなかにおける人間の社会活動、さらに社会における人間の心と精神の形成などは、ある意味で連続性がある。このような連続性に区切りを導入するなら、“外と内の論理”であろう。この構造様式からすると、外と内を介して「自然」から「社会」そして「心・精神」へと“入れ子状”になっていることに気づく。例えば、空間の次元では、自然が自己組織的に形成されるプロセスと社会において街ができあがるプロセスは類似している。なぜなら、自然の岩や川や森林は個々のことを考えないで生態系を構成している。同様に街ができていくプロセスは、個々の市民が意識することなく街の社会的生態系を築いていく。さらに例えば、時間の次元では、生物学者ヘッケルが「個体発生は系統発生を繰り返す」と主張するように、人間が個体として生まれてくるまでのプロセスにおいて魚−両生類−哺乳類−人間という生命40億年の発生プロセスを入れ子状に繰り返す。
 人間がこのように入れ子状に形成される環境の一構成員にすぎないことを忘れてしまうと、すなわち人間が精神や理性をもつようになったのも“人間的自然 human nature”に支えられていることを忘れてしまうと、エゴ(自我)中心の観点からの「人間中心主義」的な考え方で行動することになる。その結果、人類は生態系のバランスを考慮することなく、自らの幸福のみを求めて地球環境破壊をおこなってきたと考えられる。
 環境問題についての意識が高まりつつあるとはいえ、深刻な環境問題を改善するためには、人間は「エゴ・セントリック(自我中心)」な立場から「エコ・セントリック(生態系中心)」な立場に移ることが必要であろう。



[第2回]5月17日(土)13:30〜15:10
地球温暖化モデル−環境物理の視点から−
講師 甲南大学理学部教授 太田雅久

 産業革命以来、人類のエネルギー消費は上昇の一途をたどり、大気中の炭酸ガス濃度は確実に上昇していることが報告されています。現在、大気全体に含まれる炭酸ガスの量は、18世紀中ごろと比較して1.3倍になっており、21世紀半ばには2倍を越えると推測されています。炭酸ガスの放出は主として化石燃料の燃焼によるもので、現代社会の進展を維持して行く上で核エネルギーと並んで主なエネルギー源となっています。 この炭酸ガスが地球の温暖化に関して注目される理由は、主として赤外線を強く吸収する内部構造を持っていることによります。太陽からの入射光に対しては比較的透明なのですが、太陽光で暖められた地球から再び宇宙に向けて放射される熱線(赤外線)を吸収したり反射したりして宇宙に逃がさないように作用しており、それ故に温室ガスと呼ばれています。この様な性質を持つ温室ガスには、他に二酸化炭素やメタン、フッカ炭素等色々あり、地球表面の温度を決定するのに重要な役割を果たしていることは良く知られています。
 しかし、温室ガスの濃度の上昇の様子が推測できても、それをもとに将来の地表の温度を予測することは非常に困難な作業です。重力の問題があるため、地球−太陽系の模型を作って実験することは不可能です。最近流行しているカオス理論での比喩的な説明で「アマゾン地方での蝶の羽ばたきによる気流の乱れが、数日後のテキサス州の天候を大きく変える」と言われるように、長期的な天気予報の侭ならない現状から考えても、大変複雑な大気や海洋の時間変化を正確に予測手順に組み入れることはとても出来ません。従って、コンピュータ上で実験できる仮想系を考える以外に方法はありません。熱のやり取りや流体力学に関する物理法則を基にこの仮想系が作られ、スーパーコンピュータを長時間働かせて結果を求めます。それでも地球全体を扱うには程遠いのが現状です。
 ここでは、地表が人類の生存に適した温度に保たれている理由を理解すると共に、地表の温度変化を予測するための最も簡単な、しかし、最も理解し易い物理的模型を用いて、温室ガスの濃度変化によって地表の環境がどの様に変化して行くかを学んでみようと思います。もし、このままの速度で炭酸ガス濃度が上昇し続けたとすれば地表の温度はどうなるのか。もし、核戦争が起こり大気の状態が著しく変わったとき。「核の冬」と呼ばれる状況はどの様にして起こるのか。また、太陽熱を利用するため地表の三分の一を太陽電池で覆ったとすれば地表の温度に大きな変化をもたらすのだろうか、等々。非常に単純な模型の範囲の枠内でも多くの面白い議論が出来て、地球温暖化に対する物理的な理解が出来るものと思ってます。

[第3回]5月24日(土)13:30〜15:10
環境と健康
講師 大阪大学名誉教授・仏教大学教授 中川米造

 健康に影響を及ぼす力はいろいろあるが、大別すると、遺伝、医療、行動(生活習慣など)、環境など4つにすることができる。そして、それぞれの影響力は、この順に強い。すなわち健康をもっとも強く左右するのは環境である。ただし、ここでいう環境とは物理化学的な環境だけでなく、自然環境、人工環境のすべてを含むものとする。人間がほとんど自然状態で過ごしたのは、人類がこの地球に誕生してから、約1万年までの、200万年ないし300万年であり、この間にこの自然環境に適応した形態、機能そして生活を身につけてきた。
 1万年前から農耕牧畜生活がはじまり、新しい環境がうまれた。食料は多少豊富になったが、偏食傾向が生まれてビタミン欠乏や虫歯を多発させた。食料争奪のための、あるいはそのための土地争奪をめぐっての戦争は、窮乏生活を強いることで、不健康の原因となった。また物資の交易が盛んになることは、疫病の交流をすすめる要因をつくる(天然痘、ペストなど)。
 そして、300年ほど前からの産業革命も健康に大きな影響を与えた。生産効率中心の社会は、はっきりと社会病と認識できる種々の病気をつくりだした(結核、性病)。そしていま、世界は人類が体験したこともない、しかもそれらが想像できないほどの多様な組み合わせで人類をとりまきつつある。それらはあまりにも多様であるとともに急速であるために適応の時間がない。
 ただ希望は人類の英知である。とくに最近の情報革命に助けられて、問題意識あるいは危機意識は速やかに共有される条件をもてるようになった。それは、意識革命であり、社会革命を必要とする、かなり根源的な変革であるが、それなくしては人類どころか地球そのものの破滅を招くことを思うべきである。

[第4回]5月31日(土) 13:30〜15:10
地球環境と厚生経済
講師 神戸大学名誉教授・神戸学院大学教授 夏目隆

 厚生経済とは、物質的な幸福(経済的厚生)をもたらす社会環境としての経済の仕組みのことであるが、ここでは、そうした経済の仕組みがどのような環境問題をどのように引き起こし、逆にそうした環境問題が人間の幸福全体(総体的厚生)のありかたにどのような問題をなげかけているかを考えてみたい。具体的には、国民経済の次元において環境問題に対する市場メカニズムの功罪が問題となり、地球規模では、先進国と発展途上国のそれぞれにおいて、また、その相互関連のうちに、環境汚染と資源枯渇とが、人類の福祉をどのように脅かしているかが考察される。
(内容)
  1、環境と経済−厚生well−beingの視点より
    (1)経済的厚生と社