司 会
太田雅久(甲南大学教授)
コメンテーター
鈴木善次(大阪教育大学教授)
シンポジウム I「自然環境における科学技術」 コメンテーターから
今、求められる科学技術とは?
−自然環境との調和を求めて−
鈴木善次
大阪教育大学教授
人類は、ありのままの自然を素直に自分の環境として受け入れる他の生物と異なり、その歴史始まって以来、周囲にある自然を自分にとって望ましい環境に作り変える努力を重ねてきた。その作り変えの手段として生み出されたのが技術であり、具体的には種々の道具である。道具は時代とともに複雑なものになり、やがて機械と称されるものにまで発達した。それによって自然改変の規模は拡大された。さらに17世紀になり、ヨ−ロッパにおいて自然の仕組みを明らかにする活動、すなわち近代科学が誕生し自然についてのさまざまな知識が得られると、その知識を活用して技術が開発されるようになった。これが科学技術である。
ヨ−ロッパの人々はこの科学技術を自分たちの生活を便利で快適にしてくれるものとして歓迎した。特に19世紀に生み出された発電システムは、それまでの水車や蒸気機関などの動力とは比べものにならないほど良質で便利なものとして受け止められた。さらに20世紀のモ−タリ−ゼ−ション、石油化学技術に支えられた物質的豊かさは科学文明を人類にとっての唯一絶対の文明という錯覚までも与えた。しかし、すべてが光ではなかった。科学文明を支える技術には陰の部分もあった。それがさまざまな環境問題である。
ここで、求められるのが自然環境と調和を持った科学技術であろう。では、それはどのようなものか。従来の科学技術、特に環境問題を生じさせた技術は他への影響を考慮しないで開発されたものが多い。例えば、移動するという目的を達成するために有害な排気ガスをまき散らす自動車。そのまき散らされたガスが大気汚染を起こす。最近では、排気ガス中の有害物質を低濃度にする工夫がなされている。あるいはハイブリッド車のようにガソリン車と電気自動車の機能を持ち合わせたものも作られるようになった。しかし、それによって新たな環境問題が生じないだろうかという不安もある。
動物であるヒトにとって食料を手に入れることは重要な問題である。そこにも技術が存在するが、はじめは狩猟・採取という方法であったが、やがて飼育・栽培という技術を編み出した。これによって食料の供給量は大きくなり、養える人口も増大した。こうした農業技術においても環境を配慮する必要が知られたのは古代文明社会が発明した灌漑技術による塩害である。その教訓は現在の化学肥料・農薬に大きく依存する農業技術に活かされる必要性がありそうである。土壌の劣化や土壌流出、あるいは農薬汚染など農業をめぐる環境問題が生じているからである。
このように現在の科学技術を再検討してみると、自然のもつ「循環」などの仕組みを十分考慮した技術が求められることになろう。農業では土壌の生物などの働きをもっと活用した技術、動力ではソ−ラ−・システムや風力発電など環境を考慮した技術の活用である。今回のシンポジウムでは、それぞれのパネリストからそうした提案がなされることを期待している。
核技術と人間の行為
田 徳祥
中国・北京大学教授
核エネルギーの発見と技術は、人類が冷静に技術を応用しなければならないことを証明した。
1.科学者の杞憂
人間は天国のような生活を実現するために科学技術を発明したが、時にはそれによって地獄になったこともあった。1942年、人類は初めて核実験(自至核裂変鏈式反応試験)に成功し、原子力エネルギーを利用する鍵を発見した。世間は大喜びだった。しかし、原子力エネルギーの発見によって、人間は大きな殺傷力を持つ原子爆弾を製造し、二十数万人が死傷した。それは人類の戦争史の悲劇である。
2.放射線による被害
冷戦時代の軍備競争の中で、数多くの核実験が行われた。1993年のUNSEARの統計によると、その回数は520回にものぼるといわれている。これらの核実験は大気に放射性汚染をもたらし、試験場付近の住民、特に子どもたちに重大な被害をもたらした。原子力の利用は、通常運行の場合、住民に対する放射線はごく微量であるが、一旦事故が起こればその被害ははかり知れない。中でも、1952年のKyshtym工場爆発事故と1986年のチェルノブイリ原子力発電所爆発事故が最もひどく、汚染地域に及ぼした被害は甚大なものであった。原子力技術の応用においても、四回の重大な放射線漏れ事故があり、数人の被害者と死者が出ていた。
現在、人類全体が受けている放射線は主に自然からの放射線によるものである。それは人工的な放射線の被爆量を計る基準とされている。UNSCEARの測量によれば、平均的な数値で計測して、自然による被爆量は医療照射の五倍、核爆発の百倍、原子力発電所の一万倍である。
3.原子力発電の発展による環境の改善
人口の激増と一人当たりのエネルギー使用量の増加にしたがって、世界のエネルギーの需要と消耗が急激に増えた。今のところ、石炭・石油・天然ガスが主なエネルギーであるが、これらのものは有限であり、また再生不可能なものである。同時に石炭・石油・天然ガスの燃焼が環境に及ぼす汚染は、温室効果と酸性雨が生まれる主な原因である。ところが原子力発電所は火力発電所のように大量の噴煙を排出しないし、CO2や硫化物、重金属などの有害物質も出さない。さらに原子力発電所は毎年消耗する燃料が非常に少ないし、核廃棄物の量も少ないので、安全に処理することができるはずである。フランスでは、1980年から1986年の間の総発電量のうち、原子力発電が占めた比率は24%から70%に上昇した。その間、CO2の排出量は56%、埃の排出量は36%減少し、大気汚染が目に見えるほど改善した。全世界442の原子力発電所は30の国家と地域にあり、世界に17%の電力を供給し、CO2の排出を8%縮小したのである。
4.原子力技術が人類に文明と進歩をもたらす
放射線によって癌を治療する技術はたくさんの人の命を救った。放射免疫分析技術は原発性肝臓癌の早期診断の主要技術となった。また、同位元素追従技術を利用して、各種の汚染物質の発生、拡散、最終的な蓄積場所を知ることができる。中子活化分析方法はたくさんの謎を解き、幾つかの環境問題を解決することもできるだろう。放射線で虫や微生物を殺して食品の鮮度を保ち、作物品種の改良ができるのである。
5.まとめ
原子力技術は、人類に文明と進歩をもたらすことができるが、その反面、人間を傷つけたり滅ぼしてしまうことさえできる。これは技術の両面性である。技術をどう利用するかが問題であるが、それを決めるのは技術を運用、支配する権利を握る人間である。人間の観念や欲求は技術を利用する方向に直接影響する。技術は人類の生活を改善して、人類全体の利益のために使われるのか?
それとも少人数の私欲と占有欲を満たすために使われるのか? この問題は人間の価値観念と道徳水準によって決定される。今必要なことは、もっと広い範囲で、地球保護意識、社会公平、暴力に対する嫌悪を宣伝することである。人間と人間、それに人間と自然の快いつき合いは新しい道徳観である。それこそが当代の人間と今後の人間が求めなければならない。
科学技術と農業の関連性
シリワット・ソンダロトック
タイ・ラジャバト王立研究所助教授
発展の過程には変化がつきものである。田舎から都市部への推移、小さな中心から周辺への広がり、伝統的なものから技術的なものへの変化と、先祖からの生活様式の衰微していく変化は、タイの目に見える移りゆきの道標である。タイの農民に関していえば、タイの農民は、乳牛や水牛などを使って人手で農作業をしていた。農産物は、まず家族の食料を生産し、余剰がとれた場合、それらを他人に売って収入を得ていた。ところが第二次世界大戦後、多くの農産物が輸出用生産物になっていった。他方で、大型機械、農薬、改良家畜などの農業技術を欧米や日本からも取り入れた。
技術と農業との相互関係性は話し合いによって明確に認められていた。しかしながら、その影響については多数の異なった意見があった。ネガティブな見方は、科学技術が乱開発と汚染を引き起こしたというものである。生態系との調和のとれていない農業技術は、商品価値のない粗末な穀物や雨水を使った伝統の農業システムを犠牲にして「進歩的
progressive」農業を奨励する。
しかしながら、ネガティブな影響は次のような困惑を生じさせている。
*新しい技術形態は、伝統的な職業、生計、価値をなくしてしまうかもしれない。
*また次のような問題の複雑性がある。
スモール・イズ・ビューティフル 対 ビッグ・イズ・パワフル
(Small is beautiful) (Big is powerful)
適応的技術 対 進歩的技術
(Appropriate Technology) (Advanced Technology)
持続可能な発展 対 成長
(Sustainable Development) (Growth)
ポジティブな見方をすれば、科学技術は農業に大きく貢献すると言うことができるだろう。それは、技術を使用するのが地域住民である場合、彼らが適切で文化的意味を持った技術を使用するときである。伝統技術と科学技術の合体によって、どのように人間と自然との間のバランスを実現するかを研究されねばならないのである。
生態系に対する科学技術の影響
ナンシー・ターナー
カナダ・ビクトリア大学教授
人類の歴史は、科学技術の発展の歴史でもあった。実際に、歴史上の様々な時代で科学技術の発達に関する自画自賛の表明をおこなってきた。すなわち、新石器時代、鉄器時代、農業革命、産業革命、電気時代…科学技術などの科学技術の発明は、人類に多くの利益をもたらした。
科学技術は、私たちが自らの環境や宇宙に関してよりよく理解し、私たちの健康を改善し、人口を増やし、様々な環境や資源を搾取していくことを可能とした。もし、私たちが地球上の他の生物と自らを比較したならば、たとえそれが人間に近いチンパンジーと比較しても、自らの成し遂げてきた歴史を誇らしく思うかもしれない。、
しかしながら、人間の科学技術の成功の上には、不吉な暗雲が広がっている。私たちのつくりだした状態であっても生きていけるネズミ、雑草、ある種の昆虫、栽培植物や家畜動物などの生物を除いて、地球上の多くの生物が、人類の科学技術の発展とともに減少してきた。実際に、私たちの行動の影響を受けないような生態系はこの地球上には全く存在しない。その正確な数は明らかでないが、多くの生物種が私たちのために絶滅し、また別の多くの生物種が、数においても、生息範囲においても、遺伝的多様性においても、非常に減少してきた。生物種の問題だけでなく、動物の群棲や植物の群落、生態系の単位で激減し、ひどい場合には、絶滅してしまった。
狩猟し、過剰に殺したために、多くの哺乳動物、狩猟の鳥、その他の動物の数が人間の手によって減少した。しかしながら、多くの場合は、間接的に、予測できない科学技術の影響が、生物を減少させてきた。DDT,ディルドリン、その他の殺虫剤の発達と多量の散布のために、生態濃縮という測定不可能な結果を生みだし、例えば、その影響は鳥の卵の殻が軟化し、多くの生物種の数の減少という形で現れている。採掘や溶鉱により排出した酸性汚水や他の汚染物質、また工業の発展とともに生み出された酸性雨が、生態系全体に影響し、文字通り“殺し”てきた。
大規模な輸送システム、広大な採掘場、巨大なダムを建設できるようになったのは科学技術のおかげであるが、同時に谷全体に被害をあたえる大きな洪水をもたらした。また、人間の科学技術は、熱帯地方と温帯地方の両方で、大規模な森林の乱伐や、サトウキビ、トウモロコシ、大豆のような単種の作物畑を広大に切り開き耕作、植え付け、収穫を促してきた。さらに人間の科学技術は、湿地帯を開拓し、大都市を建設したために、実に数百マイルもの海洋において魚を絶滅させてきた。これらの行為の影響は、他の生物にとっては破壊行為以外のなにものでもなかった。それというのも人間はなんら考慮することなしにそれらの生物を乱用し、酷使してきたからであった。中でもオゾン層の破壊と地球の温暖化は、今後の最も深刻な心配事であり、生物圏の長い歴史においてもこれまでにない圧倒的な衝撃を与える事態になる。
科学技術は真実のところ、良い面と悪い面の両面をもつ。悪い面は他の生物に被害を与えることであり、それは私たち人間自身に対する影響より深刻なものである。しかし、最終的には人間も含んだすべての生き物が生きながらえるために科学技術を駆使する必要がある。私たちがもたらした問題を解決するために今、科学技術の良い面を大いに利用しなければならない。
科学技術と人工環境
村上温夫
日本・甲南大学教授
科学技術と環境の問題というと、技術の進歩が環境破壊をもたらしたとか、逆に、自然環境を護るための技術の開発が大切だとか、そういう議論がよくなされる。その上、科学技術の急激な進歩が自然環境破壊の元凶であると短絡しがちの人が多い。
自然環境の保護とか、自然環境を護るための技術の開発は大切であって、今後、我々はその努力をせねばならないが、古来から人間はいかにして環境を護る努力をしてきたのであろうか。そもそも環境とは一体何であろうか。
人類はその出現以来自然の姿を変えてきた。自然の姿をそのまま残すのが環境保護であるならば、そのための最良の方法は人類が滅亡することであろうが、そうすれば今の自然がそのまま残るかというとそんなことはない。一体何のために環境保護を唱えるのかと言えば、それは現在の我々がより良い環境を人類の子孫のために残したいからであろう。そして、なぜそうしたいのかと問われれば、我々の子孫がより幸福な生活を送れるようにしてやりたいということになろうか。
ということになると、問題は自然環境の保護のみにとどまらず、人工的により良い環境を作り出すという努力も大切だということになる。地中海世界に行くと、至る所にローマの水道橋の遺跡が見られる。人間が住める水のある環境を作るために行われた努力は、今日の言葉で言えば、景観の破壊であったかも知れない。エッフェル塔が造られたとき、京都タワーが出来たとき、新幹線が作られたとき、成田空港が作られたとき、ある意味で、環境はやはり破壊されたので反対論が随分あった。しかし、それを補ってもあまりある恩恵を我々は受けたのである。だが、今日の熱帯雨林の破壊、オゾンホールの問題、広域大気汚染の問題、地球温暖化の問題などとなると、これは地球規模のゆゆしき問題で、人類全体の滅亡にもつながりかねず、とうてい放置できるものではない。
21世紀には我々を取り巻く環境は、ずいぶん異なったものになるであろう。中でも情報環境の変化が、想像を絶するほどになるのではないだろうか。我々は実世界よりヴァーチャル・ワールドで暮らす時間の方が長くなるような生活を送るかも知れない。ちょうど、現在、地上よりも地下の商店街やオフィスビルの中で暮らす時間の方が長いように。
このような科学技術がもたらす人工環境が自然環境の破壊または代替という側面ではなく、自然環境との調和という形で人類の幸福につながるようにするには、どうすればよいのか。環境教育の一つの重要な柱として、我々一人一人が考えていかなければならないであろう。
エンドクリン(いわゆる環境ホルモン)問題の現状
今井佐金吾
日本・神戸環境保健研究所部長
T. Colborn らによる”Our Stolen Future”1)が1996年に米国で出版されて以来、新しい環境問題としてにわかにセンセ−ショナルに登場したのが「エンドクリン問題」である。我が国では、「外因性内分泌攪乱化学物質」または「環境中ホルモン様化学物質」と表現されている。すなわち生体内の内分泌攪乱物質(endocrine
disrupting chemicals) EDCsが極微量環境中に存在することによりヒト、家畜、野生生物に深刻な影響を及ぼしているその可能性を示唆したものである。EDCsの枠組みについては1997年の「内分泌障害性化学物質に関するスミソニアン・ワ−クショップ」に於いて「生体の恒常性、生殖、発生、あるいは行動に関する種々の生体内ホルモンの産生、貯蔵、分泌、体内輸送、結合そしてホルモン作用そのもの等の諸過程を阻害する性質を持つ外因性の物質」としている。現在EDCsとして環境中の存在が確認されるか予想される物質の約70種類が疑われている。すなわち、DDT(先進国では既に使用が禁止されているが多くの発展途上国では現在も使用されている)や、1960年代に製造、使用がともに禁止されたものの環境中に残留が確認されているアルドリン、ディルドリンなどをはじめとする有機塩素系殺虫剤、熱交換媒体として長期に渡り使われてきたポリ塩化ビフェニ−ル類PCBs、生体への蓄積性と強い毒性を有し、発癌や奇形を誘発することから社会問題化しており、燃焼過程やパルプ製紙工業などの排出物そして農薬製造などの化学工業副産物として非意図的に生成するダイオキシン類PCDD、TCDD、合成洗剤や化粧品に使われているアルキルフェノ−ル類、特にアルキルフェノ−ルエトキシレ−トAPEs、これは下水を通じて広く水環境に放出され、難分解性のゆえに残留性が高く生体の脂肪に蓄積される。さらに、ポリカ−ボネ−ト樹脂に使用されるビスフェノ−ルAなどのビフェノ−ル類、食器、食品包装材など家庭用品として広く用いられているプラスチック製品の可塑剤として含まれるフタル酸化合物(BBP、DBP)、さまざまな化学形をとる重金属類、そして特定の植物に含まれる自然の植物性エストロジェン類が挙げられる。
野生生物やヒトへのEDCsの影響が疑われる現象は動物学、生態学などの分野での緻密な自然観察から始まり、これまでに膨大な数の観察例がある。これらについてはイギリスBBCテレビで科学番組プロデュ−サ−を長年務めてきたDeborah Cadburyが膨大な取材記録をまとめ、1997年に出版した"The
Feminization of nature"2)に詳しく紹介されている。EDCs暴露の因果関係が比較的ハッキリしているケ−スとして、あちこちで紹介されているのがフロリダのアポプカ湖のワニの生息数の減少である。フロリダ大学のルイス・ジレット教授の調査で、システマティックに採取された卵の75%が胎仔が存在しない無精卵かすでに死んだものであり、雄ワニの多くは雌性化の程度に差はあるものの中間の間性であることが明らかになっている。また血液検査によれば捕獲した成体の約80%に女性ホルモンのエストロジェンが顕著に産生しており、ペニスの萎縮など何らかの異常が認められ、脱雄化しているのが確認された。ジレット教授は「だからといって、オスがメスに変わったわけではなく、正常なメスには決してなれない。不妊のうえ生殖不能の異常なオスの誕生だ」と述べている。原因は10年ほど前に湖岸の化学会社から大量の殺虫剤(DDT、DDEなど)が流出したことに起因するとされている。ヒトへの暴露についてはフタル酸類などについて研究が進められつつあるが、明確な因果関係はいまだ欠如している。しかし成人男子の精子数の減少、精巣腫瘍、また女性の乳癌や子宮内膜症の増加などがEDCsの影響と考えられている。ジレット教授は「我々は何らかの形で内分泌系の機能に深刻な妨害を受けている。今、野生生物に起きていることは人間にも関係している。人間に深刻な生殖障害が起こる可能性がある」と懸念している。
註
1)『奪われし未来』長尾力訳、翔泳社、97年
2)『メス化する自然』古草秀子訳、集英社98年
* 井上達、環境研究:No106、1997 他 参照
司 会
藤本建夫(甲南大学教授)
コメンテーター
鳥越皓之(関西学院大学教授)
シンポジウム II「社会環境における人間性」 コメンテーターから
開発政策のあたらしい方向
一どのように自分たちの社会環境を形成するのか一
鳥越浩之
日本・環境社会学会会長・関西学院大学教授
1. 内発的発展論の登場
ふたつのフィロソフィー いままでのわが国の開発政策は「近代化論」というひとつのフィロソフィーしかもっていなかった。それは、近代化によって人びとの幸せが実現できるという考え方である。しかし近年、ふたつのフィロソフィーが共存しはじめていることが自覚されるようになってきた。もうひとつの新しいフィロソフィーは、どこに力点をおくかによってさまざまな名称をあたえられているけれども、ここではそれを「内発的発展論」(endogenous
development)とよんでおこう。
近代化論 いつ頃からだろうか、地球上の多くの人たちが、幸せになるということは「近代化」によって成し遂げられると信じるようになっていた。多くの民族や国家、とりわけ「開発途上国」(developing
country)とよばれた国々は「−ing」という進行形でよばれ、いつかそれが成し遂げられて、先進国(developed
country)という「−ed」で形容される国になることを望んだ。
このような考え方を支えている「近代化論」は一言でいえば、つぎのふたつの考え方をもっている。ひとつは、近代化とはどの国も発展のプロセスとして辿る一本の道のようなものであり、途上の国は近代化された国を手本として努力すればそれは実現できるとみなされていること。もうひとつは、近代化論は先発の先進国の経験に基づいて、アメリカを中心に形成された考え方であり、その近代化は高エネルギー消費型のライフスタイルを特色としている。そして、もしこのライフスタイルをどの国も選択をしたならば、自然環境を著しく破壊させる可能性をもっていること。これらふたつの考え方をもっている(鶴見和子、l989)。
すなわち、一本の道を辿って、近代化を進めていく道の先は、高エネルギー消費型であり、それは市場レベルでいえば大量消費型、住民の感覚でいえば贅沢なライフスタイル、ということになる。そしてそれは、自然環境破壊に結びつくというものである。
内発的発展論 それでは近代化論に対置される内発的発展論とはどのような考え方なのであろうか。そもそも内発的発展論は、発展途上国など、先発の先進国以外の国での経験にもとづいて形成されたものであって、平たくいえば、自分たち自身の発展図式にもとづいた発展のことである。したがって、発展図式は各国や地域によって異なるという考え方となる。すなわち、いわゆる近代化論は、視点を変えれば、アメリカやイギリス自身の内発的発展論といえるものであり、それは他の国々の見本とはならないと判断する。
近代化論は全ての国の発展が“おのずから”この一本の道を歩むという意味で客観的真実のごとく考えられてきた。それに対し、内発的発展論は道が多数あるという考え方である。そうすると、ではどの道を歩むのかと問われるわけで、道の選択をする自分たちの価値観を示さなければならない。その意味で内発的発展論にもとづく政策は「価値明示的」である。それに対し、近代化論の政策の場合は、価値を示す必要がないので「価値中立的」といえる。また近代化論は国家の政策論となってきたが、内発的発展論は基本的には国家よりも小規模なコミュニティから立ち上げる政策論である。
内発的発展論は、地域生活の充実を目標とする。そのため、人間が生きるための基本的要求(食糧、健康、住居、教育など)がまず満たされること、それと地域の自然や文化との調和に意がそそがれることに特色がある。とくにアジアでの内発的発展論は精神面での人間の発展に関心が高い歴史をもっていた事実があるという。
経済史家の西川潤は幾人かの内発的発展論者の論をまとめて、結局は内発的発展論はつぎの4つにまとめられると指摘している。・内発的発展は経済学のパラダイム転換を必要とし、経済人に代え、人間の全人的発展を究極の目的として想定している。・内発的発展は他律的・支配的発展を否定し、分かち合い、人間開放など共生の社会づくりを指向する。・内発的発展の組織形態は参加、協同主義、自主管理等と関連している。・内発的発展は地域分権と生態系重視にもとづき、自立性と定常性を特徴としている(西川潤、1989)。地方自治体の政策 この内発的発展論が現実の政策となりつつあるのには、ふたつの理由がある。ひとつは地域政策に対して、地方自治体の関与が強くなったことである。ことばを換えると、国家の関与が少なくなったことである。それはいわゆる地方分権の流れであるといえる。もうひとつは住民の発言権が目に見えて強くなってきたことである。これも地方分権と同じ考え方であって、地方分権をさらに極端にしていけば、地元住民への分権となっていく。
ところで、日本国家は明治以降一貫して近代化政策をとってきた。それに対し、現在、地方自治体は近代化政策を肯定しつつも、内発的発展論の政策を導入しはじめている。各地方自治体による地域の個別性への配慮や地域の独自性への模索は、結果的には、近代化論だけではなく内発的発展論のフィロソフィーに依拠することになる。
また地元住民は自分たちがいま住んでいるところに「いつまでも住みたい」と思うような環境を形成することを望む。それは素朴な自然環境や歴史的環境の保存論ではなくて、そこになにほどかの活力があることを期待するのがふつうである。それは内発的発展論と整合性をもつのである。
オルタナティブ開発論 視野を外国に広げよう。そうすると、ここで討議している内発的発展論は、開発途上国への援助のプロセスから生み出されてきた「オルタナティブ開発論」(ジョン・フリードマンなど)にたいへん近いことに気づかれよう。内発的発展論はオルタナティブ開発論と同じ時期、1970年代頃に日本で生まれ、1980年代に理論的な整備が進みはじめたものである。この頃に、世界のあちこちで近代化論ではない別の発展のあり方がつよく問われていたのである。したがって、内発的発展論をオルタナティブ発展論の一変種とみなしてもよい。だが、内発的発展論の際だった特色はコミュニティの内部から“自分たち自身の考え方”で“自分たち自身の地域のありよう”を考える必要性を唱えたことにあるようにいえる。
2. コミュニティ・ビジネス
異なる道を辿っていこう 内発的発展ということばを使っているかどうかは別にして、日本の各地で、「地域の特性」とか「地域の自立」、「地域活性化」といわれるときに、内発的発展論の考え方が入っているといってもよい。もっとも、地元からの評判をよくするために、このような内発的なことばを形式的に用いつつ、現実には中央政府からの巨大な資金援助を受けて公共事業を行ったり、地域外の特定大企業による観光開発などであったりする。しかしそれは外来型開発である。内発かどうかの判断基準は「地元からの自発的計画」、「地域に根ざした経済発展」、「地域の環境保全への配慮」(宮本憲一、l989)の三点の全てが整っているかどうかによるといってもよい。
内発的発展論は日本や中国でのフィールド調査を通じて、社会学者、鶴見和子などがその理論的発展に寄与したのであるが、彼女らが訪れた日本の各地や中国においても、地元でこのような考え方をもっている地域リーダーや研究者に出くわしている。その意味で、この内発的発展論は純枠に研究者が構成したモデルというよりも、このような考え方が各地、各国で微力ながら存在しており、鶴見らがそれを理論的に整理し方向づけた性格のものといえる。
例えば鶴見らの紹介に依拠すると、中国の社会学者、費孝通はつぎのようにいっている。彼は中国の各地を調査した結論として、「今後中国の農村の発展は、異なる条件をもつ農村に、ある一つの手本を強制的に模倣させるようなことは避けなければならない」。そして彼はいう。「お互いに平等の立場に立ち、それぞれ異なる社会条件から出発して、異なる道を辿っていこう」。これは中国の文化革命当時の「農業は大寨に学べ」というようなスローガンを典型とするかつての農村政策とは大きく異なる考え方である。
コミュニティ・ビジネスとの関係 いま日本などいわゆる先進国で、コミュニティ・ビジネスや市民事業、ワーカーズ・コレクティブといわれているものがある。それらは用語が異なるだけで、内容は大同小異なので、ここでは一括してコミュニティ・ビジネスとよんでおこう。それはいままでみてきた内発的発展論と関係が異なるところもあるものの、先進国での内発的発展論だともいえるものである。
コミュニティ・ビジネスは人によって、定義が異なる新しい言葉であるため、ゆるやかな定義をしておくと、つぎのような意味である。すなわち、コミュニティ・ビジネスとは、コミュニティを基盤にして、地域住民の主体性のもとに、福祉、環境、人づくりなど地域共同生活に必要な分野の活動をし、その活動から利潤を得る事業をさす。
具体的には、福祉分野では高齢者に対する介護や、病院の通院のための車による送迎などをして、定まった礼金を得たりするものである。また環境分野では、森林や河川を利用したものでいえば、森林浴やボート遊びなどを楽しんでもらうとともに、森林からの特産物販売をして収入を得、また都市住民に森林の価値の見直しや河川を自然のままに保つことの大切さを実感してもらったりするものである。しかしそこから事業収入を得ているところがビジネスなわけである。
内発的発展論とコミュニティ・ビジネスは地域(コミュニティ)を基盤にしていること、地域住民の主体性を大切にしていること、環境など地域保全に意が注がれていることに共通点がある。しかしながら、内発的発展論は地域の活性化として経済的発展への志向が強い。それに対して、コミュニティ・ビジネスは主要な目的が地域の経済発展でないために、その収入はその活動をしている人の小遺い稼ぎ程度である場合が少なくない。
つまりコミュニティ・ビジネスは、会社などが利益が少ないと判断して、企業活動を行わない分野で、また行政も公的な重要性を認めつつも純粋に行政の仕事ではないと判断する分野で、活動をする。それは行政の公性と企業の私性の間にある公共的分野での活動だといってもよい。したがってコミュニティ・ビジネスは非営利組織であるNPOの活動とも重なっている。もっとも、コミュニティ・ビジネスのなかでも人びとに健全な食品を食べてもらう目的ではじめた有機農業販売が成功して比較的大きな収入を得ることもある。
コミュニティ住民の発言 コミュニティ内でさまざまなビジネスをすることは昔はそんなに珍しいことではなかった。ところが大きな企業が成立し、行政が整備されるにつれて、コミュニティ住民はコミュニティに直接関わって仕事をするということが少なくなってきた。産業化された国、いわゆる先進国ではその傾向がとくに強いといってもよい。
外部の企業が、あるコミュニティに工場をつくるというとき、それは必ずしもコミュニティの発展を願ってそうしたのではなく、ある地域に工場を建てる空間が欲しかったからである。工場立地条件を考えて、そこが便利な場所だからそこに工場を建設したに過ぎない。その結果、地域によると、空気汚染、水質汚染など深刻な公害を招き、ひどい場合には地域住民に死者も出すような公害を引き起こしたことがあった。そのことは、四日市や水俣の例をだすまでもなく、私たちのよく知るところである。
コミュニティ・ビジネスはコミュニティが力をもつためのひとつの手法である。コミュニティ住民にとって、有益な公共活動をするには、行政からの補助や会員を募って会費をとったり、ボランティアに依存するのもよい方法だ。だが、自分たちの公共事業が財政的に自立度を高めるとともに、いわば有償ボランティアをもつことはしばしば組織カを強めることになり、それがコミュニティの力そのものを強めることになる。力をもったコミュニティはコミュニティ地域内の環境の改変や地域計画に対して相対的に発言権を強めることになる。地域社会の改変にたいして、どのような計画をたて、どのような技術を用いるかについて、コミュニティの発言権の強さが今後の環境保全の成否に大きな影響をもつと考えられる。
<引用文献>
鶴見和子「内発的発展論の系譜」鶴見和子・川田侃編『内発的発展論』1989、東大出版会。
西川潤「内発的発展論の起源と今日的意義」同上。
宮本憲一『環境経済学』l989、岩波書店。
環境倫理と開発政策
李 時載
韓国・韓国カトリック大学教授
アメリカ・ワールドウオッチ研究所が『地球環境報告書』のなかで証言しているように、世界の貧しい諸国ではほぼ間違いなくそれらの国の生態環境が破壊されている。アフリカ諸国の山林は喪失され、それらの川は枯渇しており、人びとは非常に貧しい生活を送っている。最近、北朝鮮の飢餓も報道によれば、生態学的な崩壊が原因になっているという。富める国の人々は多くの資源を消費しているにも関わらず、よりよい自然環境を享有しているということはアイロニーだといわざるをえない。しかし、また地球環境は主に開発によって搾取されており、開発利益はほとんど地域から移転されているという事実である。貧しい国の貧困と環境破壊は主として自然に対する地球的規模の過剰搾取の結果である。
こうした事実から次のような倫理問題が提起されている。
(1)環境破壊は、地域水準における自然と人間との間の関係の問題である。
(2)地球環境の破壊は南北間の収奪関係を包んでいる。
(3)地球市民は、だれもが福利に対して、あるいは開発のため自然を利用できる同等な権利をもっている。
(4)富める国は開発途上国に経済および技術援助を与え、貧困から彼らを救済し、彼らの環境の復元
を助けなくてはならない。すべての開発援助は環境影響の次元から評価されなくてはならない。
(5)先進国の市民は地球的次元における持続可能性の水準にあわせるよう生活様式をあらためるべきである。
環境倫理はあたらしい倫理である。伝統的な倫理は人々のあいだの関係にのみ適用されているが、環境倫理は自然と人間を基本にして、現在の人間と未来の人間、そして先進国の人間と開発途上国の人間との間の関係を取り扱わなくてはならない。相互依存の世界、見えざる交換の網のなかに生きているわれわれは、自分の行為あるいは沈黙が影響を及ぼしうる数えきれない多くの世界市民と交流している。狭い意味における環境倫理だけでは充分ではない。地球環境を支配する世界構造を認識することは地球の新しい持続可能な秩序を形成するために必要かつ不可欠なものである。
人間性と環境教育
リチャード・スミス
オーストラリア・南オーストラリア大学客員研究員
1.はじめに
本フォーラムのいくつかの目的のため、私は人間を個々のユニークな存在としてとらえる。なぜなら個々人の「性質」は人間であることのいくつかの要因が組み合わさって成り立つからである。これらの要因というのは、生理学的、知的、情緒的、社会的、精神的な要因である。私たち人間の「性質」が、そもそも「自然」なのか、それとも私たちと私たちの文化的環境との一連の関わり合いの結果なのかは、議論の余地がある。それは、私たちの文化環境が、実のところ、第一疑問によって示されるように「自然ではない」のかどうかという疑問がそうであるのと同様である。しかし、便宜上ここでは、自然と環境がともに貢献しあって、私たちの存在や私たちの人間性のいろいろな側面すべてを作り上げると考える。
効果的な環境教育とは、私が以前に発表した4つの資質−つまり、認識、熟練、動機、及び成功の経験−すべてを用い、広げることによって、それらの適切な発達を促すものであると考える。更に、環境教育は、学習者に経験的な、社会問題を中心に選んだ状況の中に巻き込むことによって、それができると思う。つまり、学習者は、単に「情報を受け取る」だけでなく、「ここにいる」ということを経験し、しかも学習者は、難問題、すなわち社会問題を解決しようと企てる。更に学習者は、自分のいる場所を調査し、また基本的には局所的な社会問題を探る。学習者の調査する社会問題は、局所的な場所の調査に限定されず、地域的および地球的広がりをもっている。地球は「ひとつのもの
one-ness 」である。そのことを科学は最近理解し始めた。そしてまた、たとえ社会政治的な国境や社会の文化的な閉鎖性が「地球はひとつ」であることを否定したとしても、その土地に住んでいた人々は何千年もの間「地球はひとつ」であることを認めていた。
この発表で私が意図することは、次のような内容である。地域と世界はひとつというこの性質によって、経験や社会問題そして地球環境教育のテーマである「ひとつである」という考えは、生涯教育においてさらに重要な意味へと広がる。そして生涯学習の存在は地球とそこに存在するすべてのものの安寧を守るようになる。しかしながら、オーストラリアの環境教育の主流が無視していたものは、人間の精神性であり、地球がひとつであることを自覚しなかった点である。その「ひとつのもの」の大きさといえば、人間が観察する対象としての地球全体よりも大きいことを意味する。つまるところ、人間と地球はひとつなのである。すなわち人間が地球に対して行うことは、人間が自らに対して行うことと同じである。このすべてのことを受け入れるとするならば、人間性を満足させる環境教育とは一体どのようなものであろうか。
2.人間本性に対して適切な環境教育の構成要素
2.1 感覚による経験−視覚、聴覚、味覚、嗅覚、そして、大地、風、水、光などの感触、また地上の生成流転するすべての現象を捉える感覚−これらの感覚による経験によって生理学的な場所の感覚は確立する。
2.2 知性による経験−創造的活動、対象、有機体、現象、そして観念についての好奇心を満足させ拡張すること−このような知性による経験は不公平さと困難な問題を見分けるようにする。
2.3 情緒による経験−何に惹かれるか、何を避けるべきかの気づきの啓発、そして、これらの選択の結果−このような情緒による経験は状況を改良するための行為を準備する。
2.4 社会的な・協力的な経験−種々の分野における協力的な実践−このような社会的で協力的な経験は状況や関係を改善する。
もしも人間の本性に適切である環境教育が良い教育であるとするならば、これらの構成要素が働かない行動は、教育といえないであろう。不適切な教育は、身体、心、精神、そしてそれらの機能が働く時に生じる感覚を否定するように教えるであろう。また、そのような不適切な教育は、不可避的に、私的にも社会的にも地球のレベルでも病理へと導くであろう。
しかし「健全なsound」教育すなわち、道徳教育はまた、次のような要素を含む。
2.5 精神的な経験−地球の一部としての、学習者と地球との精神的一体化−そのような経験を通して、学習者は自らを地球と関係をもつものとして理解するようになる。それはちょうど、自分の家族との一体化のように。家族は、同じ身体を持ってはいないが、同じ構成要素を持っている。
3.環境教育構成要素の意味を変えること
環境教育の活動の最終段階には、ただ「精神性spirituality」を付け加えるというよりも、おそらく私たちは、これらの構成要素の意味を変える必要がある。感覚する代わりに知性化することによって、一方で情緒を研究し、他方で論理的に思考すれば、私たちが、身体を維持するものや精神を鼓舞するものを、見出すことができると考えればどうであろうか。そのような身体と精神からものごとが作られる。そして、有益な考えと、人間と地球に対して「共に呼吸をしよう」という考えが生じてくる。
西部と北部の社会では、私たちは動きつづけなければならない。多くのすべきことがあるので、私たちは存在している実感をほどんどもたない。「ただそこに座ってはいるだけではいけない、なにかをなしなさい!」という勧告は、このような社会では「なにもするな、ただ座っていなさい!」という勧告に換えるべきである。そして、なされるべき行為が存在するならば、よく知られているような「ただそれを行いなさい」というような単純な行為にはならない。行為を明白に考えなければならないし、それがあるがまま以上に手を加えてはならない。
もしもそのようなことが起こるならば、われわれはむしろ感謝したい気持ちになるのであって、それはオーストラリアの先住民の人たちの言葉で次のように表現できよう。すなわち、「私たちは地球に属しているのであって、地球が私たちに属している訳ではない」と。私たちは、学校やコミュニティにおいて山のような膨大な量を考えなければならないことに気づくまで、また「誰が木のために木と語るのか」とか「岩は権利をもつのか」というような質問がでるまで、私たちの学校では学習者とかなりの語る時間をとるのである。
4.現実性を獲得すること
実際、私たちは環境教育の重要性の序列を転換する必要があろう。たとえば、科学と芸術の評価を逆転するというように。最初に述べたように、地球と環境についての誤った教育の力を批判する時間をもっと持たねばならないであろう。私たちは「浪費」、「資源」、「開発」というような「現実に当てはまるような仮説」を研究しなければならない。
このシンポジウムの中心テーマは、倫理学、すなわち何が健全であるかということである。もしも、環境教育が学習者に教育して自分と地球についての感性を持たないように精神的に衰弱されるならば、そのような環境教育は不健全で、不完全である、つまり倫理的ではないと主張したい。容易に精神性を堕落させ、地球の生態系のつながりではなく、消費財や政党に依存するような学習者は容易に堕落した人の餌食となる。
カナダ人の文学観と環境観
アンナ・フォード
カナダ・甲南大学助教授
文学によって表現される基本的な質問に対し、カナダ人はカナダ人らしい答えをみつけようとする。つまり、「わたしは誰であろうか、そしてわたしはここで何をしているのか」といった永遠の問いを発し追求するだけでなく、「ここはどこだろうか」といった問いもする。カナダはもともとイギリスの植民地であった。かつての英国植民地として、カナダは、多少なりとも英国でなくカナダ独自なものとして定義できる。そしてカナダの初期の作家たちは、新世界における新しい景観を生活条件によって示される英国との差異を表現する。また同時に、カナダはアメリカとしても定義されない。カナダ人作家が今なお、おこなう表現方法の一つは、カナダ人のアイデンティティがどのようなものか探究し、明らかにすることである。文学的には短い歴史しかもたないカナダ文学であるが、カナダの環境とカナダ人の環境に対する態度が中心に描かれている。
カナダ文学が自然をどのように見ているかを知るためには、300年前にその国を探検し、植民地化した頃の状況を見ていくことである。そして、より重要なこととして開拓者たちが自然と遭遇した時、どのようにふるまったかを検討することである。西洋人の男性は自然を女性とみなし、自然を支配し、服従しようとしてきた。このように男性の女性に対するふるまいや虐待の方法と、人間の自然に対するふるまいや破壊の方法との間には関連性がみられる。
今日のカナダ文学は人間の環境に対する自己中心的な考え方にとって代わるものを表現しようとしている。カナダ先住民により一つの代替案が提案されるが、それは私たち自身を全体の一部、またはシステムの一部として捉え、私たちがこれまで長い間信じてきたように人間はそのシステム内で最も重要なものとして考えるべきでないことを教える。先住民の人々が、生きるための持続可能な方法を主張していることに習い、私たちもこの世界に関して持ってきた初期の固定観念をとらえ直す必要がある。
文学の研究は我々の周りの環境を見直し、地球上の生命のもつ隠された可能性をみいだしうる手段になっている。このように、文学や環境に関わる学問は、科学技術の世界に対してイマジネーションの世界を提供するため、科学技術の世界はより深められ、私たちがこれまで受け継いできた生き方に疑問をなげかける機会を生みだす。
日本の環境基本法と人権
潮海一雄
日本・甲南大学教授
1.高度経済成長と公害問題の発生
日本は、1960年代から1970年代にかけて経済が高度成長を遂げた。これにともなって公害問題が発生した。熊本県の水俣
MINAMATA 湾沿岸、新潟県の阿賀野 AGANO 川の流域で水俣病が発生、富山県の神通 ZINZU
川流域でイタイイタイ病、三重県四日市ではぜんそく患者が発生した。熊本水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくの四つは、四大公害として大きな社会問題となった。
2.四大公害の被害者救済は、裁判所が主役
このような四大公害の被害者は、1967年から1969年にかけて、加害企業を相手に損害賠償請求の訴訟を提起した。裁判所は、1971年から1972年にかけて、四つの訴訟すべてにつき、加害者に損害賠償を命じる判決を下した。公害問題の解決の主役は行政ではなく裁判所であった。救済の法律は民法であった。
3.公害対策基本法の制定
公害問題を計画的、総合的に行政によって克服すべき必要性が高まり、1967年に公害対策基本法が制定された。この法律では、公害を大気汚染(air
pollution)、水質汚濁(water pollution)、土壌汚染(soil pollution)、騒音(noise)、振動(vibration)、地盤沈下(ground
subsidence)、悪臭(offensive odors)の七つと定義し(article 2)、事業者、国、地方公共団体、住民の責務を明らかにしている。
4.地球環境問題の発生
1980年代の中ごろから末にかけて地球的規模の環境悪化が明らかになってきた。フロンやハロンによりオゾン層が破壊されつつあること、石炭や石油などの燃料の大量使用で炭酸ガスが増え地球の温度が上昇しつつあることが報告されるようになった。
1992年6月、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで環境と開発に関する国際会議が開かれ、地球環境保全のための国際的合意が成立した。
5.環境基本法の制定
このような状況のなかで、1993年11月、環境基本法が制定された。この法律は、基本概念として三つのことを明らかにしている。第一は、現在及び将来の世代の人間が豊かな環境の恵沢を享受し、将来にわたって継承していくこと、第二に、環境への負荷の少ない持続的発展(sustainable
development)が可能な社会を構築すること、第三は、国際的協調による地球環境保全の積極的推進である。
6.環境基本法と人権(特に環境権)
「環境権」とは、国民が良好な環境を享受する権利がある。環境基本法は、人間が健康で文化的な生活を送るためには、良好な環境は欠くことができないものであること、現在及び将来の世代の人間が健全で恵み豊かな環境の恵沢を享受することができるようにしなければならないことを規定しており(第3条)、環境権の趣旨は理念に示されている。
人間性と企業倫理
中丸寛信
日本・甲南大学教授
地球環境問題に対する企業の取り組みは、近年確かに様々に模索され、具体的展開もなされてきている。しかし、わが国では最近のかなり長期にわたる不況という事態の中で、その取り組み姿勢を持続していくことが二義的なものになりがちな面も否定できないであろう。しかし、周知の如く環境問題は決して避けて通れない問題である。
国際的にみれば、1990年代に入って環境マネジメント・システムの規格化が急速に整備されてきた。国際標準化機構(I
S O)においても、その可能性を探りつつ検討を重ね、1996年9月には「ISO14001環境マネジメントシステム
: 仕様及び利用の手引」をはじめ、他の4つの環境マネジメントシステムの要求事項を発行した。
そのような動向に合わせてわが国においても、同年10月よりそれらを「環境JIS」として受け入れスタートさせた。97年12月末現在での認証取得件数は618件となった。従来は環境意識の高い欧州向け輸出に配慮した電機、機械など製造業に多かったが、最近は国内の環境対応の進展に伴い、建設や流通など非製造業・サービス業に加え、中小企業にもすそ野が広がっている。取得方法も工場ごとから企業・グループぐるみに切り替えるというように多様化している。環境に配慮した資材を優先的に購入するグリーン調達が広がるなど、企業の事業拡大や競争力向上にISO14001の認証取得が不可欠になってきた。
それにしても、ISO14001の認証取得によっては今日の環境問題は解決されないといえよう。その規格は、あくまで環境マネジメントシステム導入による継続的改善をめざすものであり、環境パフォーマンスに関する絶対的要求事項を規定するものではないからである。その意味で、規格には環境問題の原因としての「高度な経済活動」の見直しに対するアプローチは見られない。環境問題を解決するためには、いうまでもなく「高度な経済活動」そのものが見直され、新たなライフスタイルが指向されることが不可欠である。しかし、現在の企業倫理(たとえば国際商業会議所(ICC)の「持続的開発のための産業界憲章」、CERES原則など)においてはその視点は見られないといえよう。
それにしても、「高度な経済活動」の見直しは非常に困難な状況にあり、それに対するアプローチに関しても明確に認識されているとはいえない。
そこで、ここではそれに対する基本的考え方、認識の仕方について述べてみたい。
音と色彩の環境芸術
北村義博
フィーリング・アーツ代表
フィーリング・アーツは、現代美術作家・北村義博が、自然、大地、地球、宇宙、いのちなどをテーマに、土と墨汁とアクリル絵の具を使って描いた抽象絵画に青・赤・黄・緑の光をあて、音楽と共に創り出す体感芸術である。光と音の効果で見る人の感性によってそれぞれ違ったイメージが引き出される。
彼はアートとしてのフィーリング・アーツを追求するために、つくば科学万博をはじめ、大阪府民芸術フェスティバル、ベルリン日独センター(旧日本大使館)等で公演を行ってきた。
一方、自らの子供の入院をきっかけに、「痛みや苦しみの中にこそ、芸術が必要」と8年前から、ホスピスなどの医療現場や障害者施設、医療や環境シンポジウムでも多数の公演を行ってきた。そして、フィーリング・アーツを医療や福祉と結びつけ、芸術の枠を超えた「いのちのまなざし」を築くことをライフワークとするようになった。
1995年1月の阪神大震災直後から、ボランティアとして避難所に関わり、フィーリング・アーツを被災地で数回公演。1996年には、神戸市中央こころのケアセンター、子供心身医療研究所のシンポジウム、神戸いのちの電話、日本保健医療行動科学会。1997年には、TOKYO地球市民フェスタ‘97(東京都、東京国際交流財団主催)。また神戸市中央こころのケアセンター主催で仮設住宅10カ所を巡回した。
フィーリング・アーツは、「光の水墨画」とも呼ばれ、見る人の反応は一人ひとり異なっている。「宇宙に漂っているようだ」「天使が見えた」「海の中にいるようだ」「ヨーロッパの町並木だ」などと、イメージが広がっていく様は、あたかも一人ひとりのこころがつくり出す感動や喜びであり、それは自分自身へのメッセージでもあるといえる。
ある施設では、肢体だけでなく顔の表情も動かせない重度の障害を持った子供が、見終わったあとに涙を流していた。教師は驚き、「芸術こそ彼らに必要だ」と。また、暗闇で幻想的な光と懐かしい音を楽しむことで、人は深い落ち着きを得ることができる。死を前にした人から「今夜はぐっすり眠れる」との感謝の言葉も寄せられた。
「音と色彩の環境芸術」をめざすフィーリング・アーツは「美しいものを目にすれば人の心は安らぐはず」と、被災した人々やボランティアの人たちの癒しになればと、「光と音の芸術」の可能性を自主的な集まりを作り探求している。
座 長
谷口文章(甲南大学教授)
シンポジウムIII 総合討論:座長からのコメント
総合討論
環境倫理と環境教育をめぐる科学技術と人間性の問題
谷口文章
日本・甲南大学教授
タイ、中国、韓国、カナダ、オーストラリア、日本からのゲスト・スピーカーによる特別講演と記念講演、そしてシンポジウム・「自然環境における科学技術」およびシンポジウム・「社会環境における人間性」の議論を通じて、シンポジウム・では「環境倫理と環境教育をめぐる科学技術と人間性の問題」を総合討論として展開したく思います。
まず、記念講演では、各国の固有な環境を背景に、科学技術や経済・社会活動のエコロジー化(田先生)、農業の持続可能な代替案(ソンダロトック先生)、カナダの先住民の知恵による環境保全の思想(ターナ先生)、環境運動における生態学的視点(李先生)、グローバル教育とオーストラリアにおける環境教育の実践例(スミス先生)、日本の環境教育の展開と現在の状況(鈴木先生)などをお教えいただきました。
また、シンポジウム・「自然環境における科学技術」では、司会者の太田雅久先生とコメンテーターの鈴木善次先生のリードの下に、自然環境における科学技術の問題がとり挙げられました。鈴木先生は、環境や循環を考慮した技術の活用を主張されました。それに答えて、科学技術と風土の調和(ソンダロトック先生)、核技術の明暗(田先生)、科学技術が生態系に与える影響(ターナ先生)、自然環境と人工環境の調和(村上先生)、人類の未来に深刻な影響を与えうる「外因性内分泌撹乱物質」の問題(今井先生)などをテーマとした話が、各パネリストからありました。それらはすべて、自然環境をめぐって科学ないし技術がどのような影響力をもっているかについてのものでした。原子力発電や放射線、外因性内分泌撹乱物質(いわゆる「環境ホルモン」)の問題は、大変深刻な事態を招こうとしております。このような現在だからこそ、科学技術が積極的にその力を発揮しなければなりません。
こうした自然環境・科学・技術などの課題は、シンポジウム・「社会環境における人間性」と相関関係にあります。なぜなら、技術を使用する主体の人間性によって、環境がよくもなれば悪くもなるからです。司会者の藤本建夫先生とコメンテーターの鳥越皓之先生のリードの下に、社会環境における人間性の問題がとり挙げられました。鳥越先生は内発的発展論と持続可能な発展を結びつけ、オルターナティヴ開発論やコミュニティ・ビジネスなどを紹介され、具体的な議論の枠を与えられました。そして各パネリストは、伝統的な人間同士の倫理から人間と自然、現代と未来の世代、先進国と発展途上国との関係にまで視野を拡張した環境倫理の主張(李先生)、自然環境における人間性の教育の視点(スミス先生)、環境文学を通じて科学技術の世界にイメージの世界を提供することの必要性(フォード先生)、公害から環境問題への推移と環境基本法の沿革(潮海先生)、環境問題に対する企業の対応と環境マネジメント・システム(中丸先生)などについて論じられました。これらの諸問題は、社会環境に生じている公害汚染や破壊と人間性のあり方が深くかかわっており、また持続的発展の問題に直接関係していることを示しています。またその意味で具体的な環境問題に対処できる環境倫理が必要なことはいうまでもありません。
さて、まとめの総合討論であるシンポジウム・「環境倫理と環境教育をめぐる科学技術と人間性の問題」では、特別・記念講演およびシンポジウム・・・のすべてを含めて、今までに提案されたことを深め、十分に議論できなかった問題をさらに展開していきたく思います。
プレ・シンポジウムでは、北京大学の環境教育は大学レベルでおこなわれているという報告(田先生の特別講演)がありました。それは、学校教育制度の環境教育というより、大学教育・学校教育・社会教育・在職者教育すべてを基礎づける「環境学」の展開というべきものでした。このようなことから、この総合討論の前提として環境教育の本来の姿が広範囲なものであることが分かります。したがって広範囲であることは、一方で環境教育の指命が大きなものであると同時に、他方でその分だけ環境教育の概念があいまいなものにもなります。例えば、環境教育は、家庭教育からはじまって、学校教育、大学などの高等教育、在職者の教育までの長い時間上の範囲にあります。また、学校教育と学校外教育の野外活動やキャンプ、社会教育、生涯教育などの広い空間上の範囲にもあります。したがって環境教育について議論する場合、この点に注意しながら、パネリストの先生方がそれぞれの立場からどの次元で論じているのかを明確にしていただきたく思います。
まず第一のテーマとして、シンポジウム・から自然環境に関する「科学と技術」の問題を深めたく思います。自然環境を回復するために現代の世界では主役は人間なのか科学技術なのか、またどの程度まで科学や技術が環境問題を解決するのに役立つのかなどが、環境教育の視点から問われ、教えられなければなりません。また環境倫理においては、抽象的な議論に終止することは許されません。例えば現実に世代間倫理を考える場合、放射能やいわゆる環境ホルモンなどを人生の問題・人間の存続の問題として正面からとり挙げ、かつそれの解決に向けて方向づけを与えるものであるべきでしょう。
そこでここでは、本シンポジウム共通課題である環境倫理と環境教育のカテゴリーに分けて、それぞれ2人ずつ御意見を伺っていきます。まず、田先生と村上先生には、自然、科学、技術、科学者の良心、科学者の主体性などをキーワドにして、環境倫理についてそれぞれの立場からどのように考えられるでしょうか。次に、ソンダロトック先生とターナー先生には、自然、科学、技術などとかかわって、具体的な環境教育がどのように展開されますでしょうか。
次に第二のテーマとしては、シンポジウム・から社会環境に関する「人間性」の問題が深められねばなりません。人間性の健全さを回復するために、社会的レベルではどのように考えるべきでしょうか。科学技術に従属し、主体性を失った自己中心的な人間性は不健全でしょうし、またそのような人間性が企業倫理を無視すれば公害問題などを生ぜしめ、さらには自然の破壊をもたらします。その意味で環境法などが大切な役割を果たします。しかしその根本をたどれば、不健全な人間性が環境倫理と環境教育を通じてどのように健全さを回復していくかが、21世紀の人間と地球の環境を考える場合、大切なこととなります。
そこで、健全・不健全の概念、社会の持続可能な発展、地域コミュニティ、心の環境、社会的規範などをキーワードとして、鳥越先生と李先生には社会的次元の環境倫理に関して、またスミス先生には人間性を豊かにする環境教育に関して御意見をいただきたく思います。
講演者・パネリスト・司 会・コーディネーター・座長
田 徳祥 Tian Dexiang 氏 特別・記念講演,シンポジウム I,III パネリスト
1963年に北京大学を卒業。原子物理学専攻。北京大学教授として、放射線の防護と管理について指導、調査研究を行ってきた。1991年に環境保護の研究に転向。現在、北京大学環境保護局の所長、北京大学「環境と発展」協会顧問、中国科学技術大学の大学院教授。20を越える論文と以下の著書がある。『放射線防護入門』『環境汚染と健康』『イオン化放射線の量と単位』『ガンマと電子放射能の放射線の安全性』『科学技術論文の修正とその方法』その他。
シリワット・ソンダロトック Siriwat Soondarotok 氏 記念講演,シンポジウム I,III
パネリスト
農学の学士号環境科学の修士号をタイのカサートサルト大学で受ける。環境教育の問題ではタイにおける専門家として認められている。1990年より、バンコクのラジャバト王立研究所の環境教育センターの教員。学生の環境キャンプについて活動し、環境教育のマネージメントや野外活動についての書物も出版。現在、ラジャバト王立研究所の農学部の助教授、同研究所環境教育センター副所長。
ナンシー・ターナ Nancy J. Turner 氏 記念講演,シンポジウム I,III パネリスト
民族植物学者。カナダ・ヴィクトリア大学環境学科教授。1969年、ヴィクトリア大学で生態系の優等コースを卒業し、1974年にはブリティッシュ・コロンビア大学植物学科の博士号を受け、同大学の助教授になる。1975年から、ブリティッシュ・コロンビア王立博物館の研究員。専門は、栄養学における植物の役割の情報・技術、ヘルスケア、言葉、物語などの伝統的な土地・資源管理、伝統的な植物学の研究。ブリティッシュ・コロンビア王立博物館の紀要、科学ジャーナル、書籍、学術論文を著作。内容は、カナダ沿岸先住民の食性植物と内陸先住民の食性植物や、北アメリカの毒性植物とキノコ、カナダ先住民の伝統的食性植物、栄養学・食性植物について。クレイヨクワットサウンドにおいて持続可能な・森林の実践のために植物学者として勤務。1997年、科学技術、環境についてのYM-YWCA(優秀賞)・受賞、ワシントンD.
C. の「癒しの森林保存リチャード・エヴァンス・スカルティ」優秀民族植物学者賞・受賞。
李 時載 Seejae Lee 氏 記念講演,シンポジウム II,III パネリスト
1971年国立ソウル大学卒業。社会学修士、社会学博士(東京大学)。韓国カトリック大学の助教授を経て1982年同大学教授。市民環境学研究所所長。1998年米国デラウェア大学客員教授。
著作には、「韓国の環境社会学、東アジアの環境連合の形成のために」(環境社会学研究)
「ごみ問題の社会学的研究−自治体、企業、市民の社会的協同と背理のメカニズムを中心に」(日本環境社会学学会)等がある。
リチャード・スミス Richard Smith 氏 記念講演,シンポジウム II,III パネリスト
アデレード大学卒業後、同大学修士課程、サセックス大学でMA取得。オーストラリア国内外で、環境教育協会のもとで編集・宣伝活動をしている。1996年、京都大学120周年記念国際環境教育シンポジウムに招聘され、「オーストラリアの環境問題と環境教育」というタイトルで講演。現在、オーストラリア環境教育誌編集長、発達教育に従事。
鈴木 善次 Zenji Suzuki 氏 記念講演,シンポジウムI コメンテーター
1933年生まれ。東京教育大学卒業後、大阪教育大学教授、日本環境教育学会事務局長、レイチェル・カーソン日本協会代表理事。主著:『人間環境教育論』(創元社)、『日本の優生学』(三共出版)、『地球規模の環境教育』(共著,
ぎょうせい)等その他多数。
太田雅久 氏 シンポジウムI 司会
1968年 甲南大学大学院自然科学研究科修士課程卒。現在 甲南大学理学部教授、情報教育センター所長。
業績:Periodic Orbits in Elliptic Billiards, Memoirs of Konan University, Sci, Ser,
1990. Classical periodic orbits in spheroidal cavity-Prolate Case-Memoirs of the
Konan University, Sci, Ser, 1991. Preequilibrium versus thermalised Light-charged
particle emissions in the Mgreection, Dynamical Calculations, Zeitschrift, fur Physiks
A 339, 1991. Tour Symposium on Nuclear Physics, World Scientific Publishing Co. Pte.
Ltd. 1992 その他。研究分野は 原子核と自然環境。
村上温夫 氏 シンポジウムI,III パネリスト
1952年 大阪大学理学部卒業。 現在 神戸大学名誉教授、甲南大学教授。
業績:『関数解析』(朝倉書店,1980). The progress of Computer and Mathematical
Education
-The Influence of Computers and Infomation on Mathematics and its Teaching, Cambridge
Univ. Press, 1980. Mathematical Education to Engineering Students - Mathematics
as a Service Subject, Cambridge Univ. Press, 1988. Teaching Mathematics to Students
not Majoring in Mathematics -Proceeding of ICM90 Springer Verlag, 1991. 研究分野は情報環境。
今井佐金吾 氏 シンポジウムI パネリスト
1970年 甲南大学自然科学研究科博士課程。理学博士(大阪大学)。 現在 神戸市環境保健研究所
公害検査部長。業績:「毛根含有元素濃度による病態把握に関する研究−アルツハイマー型痴呆症のアルミニュウム−」(『Biomed
Res Trace Elements』1991)、「神戸市における花粉症の飛散状況」(『神戸市環境保健研究所報』1992)、「神戸市の酸性降水(第1報)」(『神戸市環境保健研究所報』1992)、
Trace Elements in Land Plants Especially Moss and Farn by Instrumental Neutron Activation
Analysis, KURRI Progress Report, Kyoto University, 1992)、「神戸市の酸性降雨(第2報)」(『神戸市環境保健研究所報』1993)、「GC−MS法による大気中低級脂肪族アルデヒド類の分析」(『神戸市環境保健研究所報』1993)他。研究分野は環境化学。
藤本建夫 氏 シンポジウムII 司会
京都大学大学院経済学研究科博士課程。経済学博士(京都大学)。 現在 甲南大学経済学部教授。
『東京一極集中のメンタリティー』(ミネルヴァ書房,1992)、「ワイマール共和国末期の雇用創出計画−「失業問題調査委員会の答申をめぐって」(『甲南大学経済学論集』1993)、「大不況と経済政策論争」(『甲南大学経済学論集』1994)、Tokyo-Zentralismus,
Konan Journal of Social Sciences, Vol.5, 1994. 研究分野は経済政策史と環境。
鳥越皓之 氏 シンポジウムII コメンテーター, シンポジウムIII パネリスト
1972年 東京教育大学大学院文学研究科博士課程。 現在 関西学院大学社会学部教授、日本環境社会学会会長。業績:『環境問題の社会理論』(編著,御茶ノ水書房,1989)、『環境社会学』(共著,有斐閣,1993)
『試みとしての環境民俗学』(編著,雄山閣,1994)、『地域自治体の研究』(ミネルヴァ書房,1994)その他多数。研究分野は環境社会学,環境民俗学。
アンナ・フォード Anna Ford 氏 シンポジウムII パネリスト
1982年 U. B. C. 大学院終了。現在 甲南大学文学部講師。
業績:Language and silence in the Temptations of Big Bear by Rudy Wiebe, Journal
of Canadian Fiction, 1992. How Not to Propose Marrige, 甲南大学紀要85号,1994. Haunting
the House of Fiction, 甲南大学紀要92号,1995. Disciplined and Published, 甲南大学紀要96号,1996.
Literature and the Environment.研究分野葉環境文学。
潮海 一雄 氏 シンポジウムI パネリスト
1973年 神戸大学大学院法学研究科博士課程。現在 甲南大学法学部教授、甲南大学副学長
業績:「千葉川鉄公害訴訟判決における責任論・差し止め論」(『ジュリスト928号』有斐閣,1988)、「大気汚染公害訴訟における差し止め請求をめぐる諸問題」(『法律時報62巻11号』日本評論社,1990)、「西淀川大気汚染公害判決−損害訴訟をめぐって−」(『ジュリスト981号』有斐閣,1991)、「水俣病羅患の相当程度以上の可能性と賠償責任の肯定−水俣病東京訴訟第一判決−」(『法学教室144号』有斐閣,1992)、「熊本水俣病事件と認定問題」(『公害環境判例100選』有斐閣,1994)。研究分野は環境基本法。
中丸 寛信 氏 シンポジウムI パネリスト
1976年 神戸大学大学院経営学研究科博士課程。現在 甲南大学経営学部教授
業績:「自己啓発と企業内教育」(『長崎県立国際経済大学論集』1989)、「企業の環境行動原則とそれへの対応について」(『長崎県立大学論集』1992)、「企業の環境ビジョンと動機づけ」(甲南大学経営学会編『現代企業とマーケティングの諸門債』千倉書房,1993)、「企業の環境への取り組みと教育について」(『甲南経営研究』1993)。研究分野は企業の環境対応と労務管理論。
谷口 文章 氏 シンポジウムIII 座長、総合討論
大阪大学大学院博士課程。文学修士(大阪大学)。甲南大学文学部教授。河北大学・北京育達工商学院客座教授(中国)、ラジャバト・プラナコーン王立研究所客員教授(タイ)、ヴィクトリア大学客員教授(カナダ)。日本環境教育学会常任運営委員。日本保健医療行動科学会常任理事。『現代思想のトポロジー』(共著,法律文化社)『哲学入門・哲学基本事典』(共著,富士書店)『環境とライフスタイル』(共著,有斐閣)『環境教育指導事典』(共著,国土社)『現代哲学の潮流』(共編著,
ミネルヴァ書房)『地球規模の環境教育』(共著, ぎょうせい)他。
Wei Honglian
1973年生まれ。北京大学・都市と環境学部・環境科学専攻。修士課程。現在、世界環境と発展委員会会長。
学位:理学士
卒業論文:持続可能な発展に直面している公益企業の環境的影響の査定
賞:1.北京大学特待生(1994、1995、1996)、 2.北京教育委員会による北京市の優秀卒業者(1997)、3.北京大学環境科学センターによる優秀な学術論文
Li Yannan
1971年生まれ。北京大学・東方言語文学部・日本文学専攻。修士課程。
1993年、中国吉林大学外文系(日本言語文学専攻)卒業後、広東省広州市日綿商社に入社。広州駐在所にて日本語通訳及び所長助手を務める。1996年、北京大学大学院東方学系(日本文学専攻)に入学、現在に至る。
Mao Xiaoling
1972年生まれ。北京大学・都市と環境学部・環境科学専攻。修士課程。現在、世界環境と発展委員会事務局長。学位:理学士
卒業論文:Shenzhen市BaoNan地区上空の大気におけるSO2汚染の特徴およびその原因
賞:1.北京大学特待生(1993、1994、1995)、2.北京教育委員会による北京市の優秀卒業者(1996)、3.北京大学特待生(1997)、4.北京大学による優秀な教授助手(1997)
天野 雅夫
1965年生まれ。甲南大学文学部社会学科卒業後、研究生。環境倫理学専攻。日本環境教育学会、日本保健医療行動科学会、関西倫理学会会員。水俣病・奇形ザルを環境倫理学の立場から研究。
鎌田 靖子
1974年生まれ。甲南大学文学部英米文学科卒業後、研究生。環境心理学専攻。日本環境教育学会、日本保健医療行動科学会会員。教育心理学の観点から環境教育のあり方を研究。
樫原 利依
1974年生まれ。甲南大学文学部社会学科卒業後、研究生。環境倫理学専攻。日本環境教育学会会員。美的調和の観点から生態系を研究。
瀬戸口 優子
1973年生まれ。甲南大学文学部社会学科卒業後、研究生。環境学専攻。日本環境教育学会会員。現代人と川や水の関わり方について研究。
朝倉 円香
1976年生まれ。甲南大学文学部社会学科3回生。哲学専攻。日本環境教育学会、日本保健医療行動科学会会員。児童文学を通じた心の環境を研究。
久山 美保
1976年生まれ。甲南大学文学部社会学科3回生。環境学専攻。日本環境教育学会、日本保健医療行動科学会会員。リサイクル・ゴミ問題を研究。
嶋本 春恵
1976年生まれ。甲南大学文学部社会学科3回生。心理学専攻。日本環境教育学会、日本保健医療行動科学会会員。観光事業研究会に所属し、観光事業の自然に与える影響や自然との関わりを研究。
竹林 由佳
1976年生まれ。甲南大学文学部社会学科3回生。生命倫理学専攻。日本環境教育学会、日本保健医療行動科学会会員。環境と生命に関わる倫理を研究。
濱田 圭子
1975年生まれ。甲南大学文学部社会学科3回生。環境学専攻。日本環境教育学会、日本保健医療行動科学会会員。探検部に所属し、野生生活を体験しながら自然環境について研究。
平岡 永子
1977年生まれ。甲南大学文学部社会学科3回生。心理学専攻。日本環境教育学会、日本保健医療行動科学会会員。心の発達環境に興味をもつ。
森岡 由美子
1976年生まれ。甲南大学文学部社会学科3回生。心理学専攻。日本環境教育学会、日本保健医療行動科学会会員。若い世代の精神状況に興味をもつ。
渡辺 理和
1976年生まれ。甲南大学文学部社会学科3回生。環境学専攻。日本環境教育学会、日本保健医療行動科学会会員。植物・動物の生態に興味をもつ。
大会長 中西典彦(甲南大学 学長)
顧問 小川守正(甲南学園 理事長)
実行委員長 谷口文章(甲南大学 文学部教授,日本環境教育学会常任運営委員)
事務局長 鈴木善次(大阪教育大学教授,日本環境教育学会事務局長)
実行委員
吉沢 英成(甲南大学 副学長)
潮海 一雄(甲南大学 副学長)
中村 運(甲南大学 理学部教授)
久武 哲也(甲南大学 文学部教授)
中丸 寛信(甲南大学 経営学部教授)
村上 温夫(甲南大学 理学部教授)
太田 雅久(甲南大学 理学部教授)
高阪 薫(甲南大学 文学部教授)
藤田 晃(甲南大学 理学部教授)
堀 直(甲南大学 文学部教授)
藤本 建夫(甲南大学 経済学部教授)
岳 五一(甲南大学 理学部教授・中国)
小林傑子(甲南大学国際言語文化センター 非常勤講師・中国)
アンナ・フォード (甲南大学 助教授・カナダ)
本山 美彦(京都大学教授)
槌田 劭(京都精華大学教授)
阿部 治(日本環境教育学会運営委員)
井上 有一(奈良産業大学助教授・日本環境教育学会運営委員)
夏目 隆(神戸学院大学教授)
鳥越 皓之(関西学院大学 副学長)
山下 淳(神戸大学教授)
須藤 健一(神戸大学教授)
田中 滋(追手門学院教授)
赤尾 整志(GEC代表・日本環境教育学会運営委員)
今井 佐金吾(神戸市環境保健研究所部長)
石神 由健(大阪商業大学)
北村 真(弁護士)
藤川 隆一郎(神戸市役所)
菊池 秦博(兵庫県庁)
本庄 眞(奈良郡山小学校)
天野 雅夫(甲南大学 研究生)
福島 志保(甲南大学 研究生)
鎌田 靖子(甲南大学 研究生)
甲南大学文学部人間科学科谷口研究室ゼミ生