臨時採用教員頑張れのまき

<臨時採用教員>いわゆる臨採について
  ◆私は余り多くを語れるほど、臨採・講師のことについて詳しい訳ではないが
   5年間に及んで「講師」と「臨採」を経験してきたので、その時の苦悩や
   喜びを文章にしていきたいと思う。これからますます「教職員」への道は
   険しいものになるだろう(採用が少ないから)。これから先生を目指している
   どこかの誰か、そして先生ってどうやってなるのかと疑問に思っている誰か
   のために、少しでも参考になればと思うのであった・・・・。
  ◆私が経験した「臨採」は
   大学を卒業して1年目:母校(私立)の講師。公立の試験より少し後に私立の採用試験
   (私立も公立も「試験」とは言わないが、やはり難関試験であることには変わりない)が
   あった。そこでA〜Dのランクを付けられる。B以上なら講師のクチがあったらしい。
   母校での講師は楽しい想い出ばかりではない。勿論生徒との繋がりは良かった(今
   でも年賀状のやりとりはしているし)。公立とは違って先生が変わらないから、懐かしさ
   もあったが、職員室内の「シガラミ」「派閥」を知ってしまい、少し失望した。現役だった頃
   先生の仲がどうとか考えたこともなかったが、「ええ?こんな事が?」という発見もあった
   りして、ガッカリの連続だったかも知れない。私はこの時高校教師志望だったが、中学校
   に所属し、時々高校にも教えに行った。
  ◆2年目:母校からお誘いがあった(そのまま頑張っていれば本採用という話もあった)が、
   高校の恩師に「あなたは外に出た方がいい」と勧められ(今思えば感謝)、公立一本に
   することにした。1学期だけ市立M高校に行った。私は女子校だったので男子が半分も
   学校にいることがカルチャーショックだったが、すぐに慣れ、男子のエリをつかんで威すく
   らい出来た。(勿論遊びでである・・・・)これは育児休暇の教員の代わりの代わりだった
   ので(代わりの先生がまた妊娠されたようで・・・)1学期だけだった。2学期からは同じ
   市立のN高校に。産育休代員で1年間とちょっと居ることになる。
  ◆このN高校での出会いは色々な意味で衝撃だった。玉突き事故に遭ってしまったのも
   この高校に通っている時だったし、生涯忘れられない生徒達との出会い、ついでに旦那
   とも出会ったし(高校でではないけど)、臨採とはどんなものなのかを考えさせられた時で
   もあった。
   一生懸命頑張っても合格しなければ突然生徒との別れを余儀なくされる。
   合格するには今目の前にいる生徒達を振り切って勉強しなければならない。
   一次は通過しても二次に受からないという事が連続したので、私も疲れていた。その頃
   絶対合格したいので「臨採」もやめて、家で勉強に勤しむ友達も出てきた。
   焦りもあったが、私はそれがどうしても出来なかった。
  ◆3年目、市立N高校での生活にも慣れた。素晴らしい生徒との出会い(その子達が1年
   生の2学期の時から私は居る訳だが)があった。2年4組、このクラスと生徒を私は一生
   忘れない。別れの迫る9月の終わり、私はまた2次試験に不合格で、「今度こそ!」と思
   っていた上に、仲の良かった友達が先に合格したという事実もあって、最高に落ち込んだ。
   生徒も応援してくれていたので合わす顔が無く、職員室で(放課後)思いっきり泣いた。
   それを見ていた2−4の生徒が担任の先生(この人も国語だったので国語研究室いわゆ
   る職員室が一緒であった)に事情を聞いたそうである。
   次の日、生徒から大きな封筒に入った手紙が手渡される。賞状のような紙に
   合格証 あなたは生徒の心をつかみ、一生懸命頑張っています。
        絶対に教師の夢を捨てないでください。4組のみんなにとってあなたは
        本当の先生です。             2年4組一同

   と書いてあった。今でもこれは泣ける。
   ほかに何も要らなかった。そこにあなた達がいれば。この合格証は今でも大切に取って
   ある。この合格証があるから今の私がある。旦那はその時こういった。
   「教育委員会の出す合格通知より、よっぽど価値があるね」と・・・・・。
   今彼らは27歳。あの頃の私より年上になっている。父や母になった子も。
   時々会うけれど、みんなのこと、いつもいつも大切に思い出しているよ。
   10月任期が切れた頃、私がカラオケクィーンコンテストというものに出ることになり、
   応援に駆けつけてくれた。その時友達と2人で歌った歌が「夏の終わりのハーモニー」。
   その時アナウンサーのインタビューで将来の夢は?と聞かれて「歌って踊れる教師です」
   と答えた。その後2年4組は合唱祭で「夏の終わりのハーモニー」を歌い、最優秀賞を
   獲った。なぜだかその賞状は私の手元にある。これも宝物だ。
  ◆3年目の終わりから4年目。N高校の後間髪を入れずY町立S中学校に行った。
   冬にはチェーンが必要な山奥の学校だった。通う前に父と母と一緒に、ドライブがてら
   下見に行ったが、奥に進むに連れて顔色が変わったのを覚えている。「まだ?」「ええ?
   まだ着かないの?」・・・母はこればっかり言っていた。
   凍結して滑ったこともあるがナントカ生きている。病休代員で本採用になるまでの約1年
   5ヶ月をここで過ごした。良き先輩(師)との出会いがあった。毎日楽しかった。
   PTA会長が牧場主だったので、絞りたての牛の乳の原液を飲んで育った(?)。
   本当にアットホ−ムな学校で、教員採用試験前にも「今目の前にいる生徒も大事にして
   くれて嬉しいけど、合格しなさい。踏み台にしてくれていいからね。今この子達をギセイに
   しても、それは受かってから次の子達に返してやってね。」と言われ、試験のために物凄
   くバックアップしてくださり、私は死に物狂いで勉強し、合格した。
   旦那はこの事に関しては複雑な心境だという。その当時こう言った。
   「そりゃあ、そう言ってもらえて嬉しくないことはないけど、複雑だよねぇ。臨採だからと割
   り切って仕事をしている訳じゃないし、どっちかと言えば君が居なくちゃ学校は回らないって
   思ってもらえるような仕事がしたいって言うか・・・うーーーーん・・・」
   臨時採用教員の思いはいつも複雑である。
   いつも不自然に別れが来る。生徒は臨時だと思って臨採の先生と付き合っている訳じゃ
   ない。この別れを経験しないためには合格。合格するためには・・・・・・・。

   このY町立S中学校ではたった2ヶ月だけだが、担任も経験させてもらった。
   おお!忘れちゃイカン。ここで今義妹になった親友ひーちゃんにも出会った。(彼女は
   学校事務)
 
   色々な意味で私の臨採生活は充実していた。幸せな臨採だったのかも知れない。
   ある学校で体育祭の時に育休の先生が見に来られ、他の先生が「早く帰っておいでー」
   って何気なく言ったことに(本当に悪気はなかったと思う。その先生が帰ってくる=私は去
   ると言う構図が結びついてなかったらしい)ショックを受けたりウジウジしたりもしたが・・・・
   この経験は自分が育休を取った時に生きたと思う。
   家が近かったのでよく呼び出されてはしまったが・・・・・。多分、臨採を経験していなけれ
   ば一生こんな気持ちを知ることもなかったろう。
   きっと今の世の中には沢山、臨時採用で頑張っている先生が居るのだろう。
   今年の採用試験でも市で3人くらいしか採用がないとか(しかも全教科で)
   ますます受難な受験生の皆さん。しかしながら、採用がある限り、頑張って。
   教員って、楽しいことばかりじゃないけれど、たった一つの楽しいことや生徒の言葉で
   10年気持ちがつながることもある職業だと思う。
   私は多分(なにが起こるかこの先わかりはしないけど)ずっと辞めない。
   元気の源が想い出の中にも目の前にも居るから。
                                       ’01.7.5 記

「エッセイ*詩」のトップへ