大切なもの〜家族〜その1愛するおばあちゃん

↑この写真は1990年8月31日おばあちゃんが勤めていた中央市場を退職した時の写真。おばあちゃんには黙ってあとから尾行し(ストーカー?)最後の仕事を残しておこうと思った。いつもいつも夜中に出て夕方帰ってくる過酷な時間割を、この年になるまで勤め上げたおばあちゃんは永遠に私の人生の師。 おばあちゃん。その名を「竹子」という。本当に名前の通り竹を割ったようにさっぱりスッキリした性格で友達も多い。面倒見がよく、人の話を聞くのが好きなので、面倒なことにもよく首を突っ込んでしまっている世話好きおばあちゃん。この9月で83歳になる。
(1918年生まれ)
私は物凄いおばあちゃん子だ。(はっきり言って今でも・・・)
今は陽にその「お株」を取られてしまっているが
孫二人(私を含む)。よく可愛がってくれている。
ひ孫は4人。物凄く可愛がってくれている。
私の家はあとから書くが物凄く厳しい家だったので、おばあちゃんがいなければグレていたかも知れない。イヤ、グレなかったかな。友達もよかったからなぁ。でも基本的におばあちゃんはアメとムチの「アメ」だった。今思えばそういう役割だったのかも知れないなぁ。子育てってある意味駆け引きが必要だったりするから。
何でもおばあちゃんに言えば叶えられた。
私の夢のためなら何でも協力してくれた。

おばあちゃんと言えば「自転車」だった。今では(事故に遭ったため)杖をついて生活している。真夜中に商工センターまで自転車を走らせるおばあちゃんは勇者です。
とにかく「働き者」
動いていないと気が済まないおばあちゃん。
苦労を苦労と思わないおばあちゃん。
従姉がとても成績がよくて将来有望で、私は落ちこぼれだった時も
(小学校の時だが)ずっと励まし続けてくれたおばあちゃん。
私はおばあちゃんのために頑張った・・・とも思っている。
私が教員になったことを一番喜んでくれたおばあちゃん。
「この子はね、先生をやってるんですよ」と目を細めて
近所の人に自慢してたっけ。
その気持ちに応えなくちゃと思って生活している。
おばあちゃんの孫であることが私の自慢です。
←この写真は1998年3月4日に撮ったものだ。
この年の「ひよこクラブ」7月号に掲載された、記念の写真だ。
風呂は自分の子供の時代(つまり私の父やおじさんの時代)から
ずっとずっとおばあちゃんの役目だったらしい。
当然私もおばあちゃんに風呂に入れてもらって育った。
その子供である陸も当然おばあちゃんに入れてもらって育つ。
陸のこの安心しきった顔。
陸の子供も入れてもらえるといいね。
引っ越し前のこのお風呂はとても狭かった。でも毎日のように来て入れてくれた。
←この写真は1999年11月5日に撮ったものだ。
今度は陽がお風呂に入れてもらってご満悦。
陽はひいばあちゃんが大好きで、
思い出したようにいつも「ひいばあちゃんは?ひいばあちゃんち、行く?」
・・と言っている。
今は2週間に一度くらいのペースでおばあちゃんの家の近くの銭湯で
陽と陸と(勿論私も)お風呂に入っている。
ずっとずっと長生きしてもらわなくっちゃ。
ねえ、みんなの大好きなひいばあちゃん。

’01.7.29.記

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